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写真

篠山紀信の「写真力」を見に行った。一昨年に引き続き2度目である。 氏の「写真力」の文章が秀逸だ。「偶に神様が降臨したスゲエ写真」と表示してあるが、確かに圧倒されるすごい写真ばかりである。 こういう展覧会って、一人で行くのもわくわくしちゃうのだが、誰かと一緒に行くのも刺激がある。感性も着目点もまるでちがう。「価値観と感性の友好的交換」と、連れに表明すれば、「なにそれ?」と冷ややかな一瞥を食らう。同じものを見ても感じ取るものはまるで噛み合わないのである。 大原麗子の美貌に時を忘れて見とれていると、隣では「怖~い。ねえ、こんなにでかいと圧迫感があるよね~」。山口百恵の色気に凌駕されていると、「百恵ちゃんなのにおへそが残念、フフフ…」と始まる。 最後の会場は、東北大震災後を撮った写真である。震災後しばらく経って、被災地近くに行ったことがあった。交通規制の看板が多くなるごとに、景色が薄くなっていく気がした。ニュースに出てこない話をいくつか聞いた。そのたびに体の中が膨れた気がした。 静かな海と傾いた建物、仮設の商店街で、風に頬を撫でられる。海風に乗って、聞こえない声、言葉や声ではないたくさんのなにかが通り抜けていく。上半身が更に膨らむ感覚があった。 写真にはたくさんのものが映し出されている。幼い兄妹が並んだモノクロの写真。目の前のことを受け入れられない妹の瞳の隣で、幼い兄は瞳の中で覚悟を静かな光に変えている。 中年に差し掛かった女性が、写し手を見据えている。強いまなざしの中にカオスのような感情が混在している。喪失感や憎しみの感情とともに、向日性の兆しが瞳の中に確かに息づいている。 連れ合いもモノクロの写真たちに見入っている。お互い感じたことの共有はしない。たぶんそれは、それぞれの胸においておくべき種類のものなのだ。感じることができれば寄り添える。寄り添うことができれば想像ができる、そうすることで思考はぐんと広がっていく。できることに限りはあるのかもしれない。けれども、可能性だって限りないかもしれないのだ。