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start a brand-new life.

孫が5つになった。大人びた言い回しでひそひそ話を仕掛けては、楽しそうに笑う。でたらめな単語を拵えて意味をつける。2人しかわからない造語ごっこが、最近の彼女のお気に入りだ。 最近2人で出かける機会が増えて、今日は中禅寺湖まで足を延ばした。はしゃぐ彼女に望まれるまま、チケットを買って遊覧船に乗る。船から目にする圧倒的な水量にびっくりしたのだろう。恐怖のあまり、彼女は目を開けたまま完全に電源オフ状態になってしまった。 今の世界は便利で、ビデオ通話なんかある。定刻にかけてきて、お気に入りのパジャマを見せてくれたり、給食の焼きそばについてに考察など、1日の出来事を報告してくる。 昨日は、親の注意を耳に入れずSnowで加工した画像に夢中になりすぎて、こっぴどく叱られていた。泣きじゃくる孫をなだめながら、これが自分の子だったら、私も叱りつけていただろうと、親としての娘の心持を思う。なるほどね、「年寄りは孫を甘やかす」などとママたちは愚痴るが、はい、その通りです。でも自覚はあるんですよ。申し開きしたところで娘の共感は得られないだろうけれども。 娘は羽目をはずすことで影響する集団生活を思って叱ったのだろう。けれど、幼稚園でさえ人間関係に苦慮する世知辛い時代に、年寄り相手に羽目をはずすくらいいいじゃないか。自分だって口うるさい親だったことを忘れ、そんな屁理屈をこねてみる。 「おばあちゃんは優しいもの」は世の定説だが、私の育った家にはそんなものはなかった。 明治生まれの祖母の「世間体」というがちがちな価値観に支配された家庭だった。祖母の言うことは法律だ。絶対的な権力を振りかざす相手に対して、都度都度常識の意味を問う私を「強情で嫌な子ども」として祖母は全否定した。母にも強すぎる態度で接する祖母が私は大嫌いだった。本やテレビで覚えた正義を武器に反発したところで、両親は取り合ってくれない。両親は私の味方でない。世の中は理不尽だ。 母にとって自慢の子どもでいたいという思いと、いい子でいられない自分との板挟み。毎日活動中の溶岩のごとく噴きあがる不満。おばあちゃんは優しいもの、そんなの迷信だ。昔話にしか登場しない。みんな世間体を気にして優しいふりをしているんだ。 過日、母と小旅行に行った。山深い農家に咲いているリュウキュウアサガオを見に行きたいと言う母につきあったのだ