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Transactional Analysis 交流分析

性格なんて簡単には変わらない。 しかし、一人では生きていけないわけだから、当然他者とのかかわりが発生する。適応していかないと自分自身が生き辛い。なので、性格だの価値観だのはひとまず横に置いて、他者たちとのかかわりを優先して考えることも少なくない。 交流分析は、比較的安易な方法で、自らのコミュニケーションを可視化できる心理学だ。 「キャラクター(character)」とか「パーソナリティ(personality)」といった言葉がある。パーソナリティ(personality)のlityを取ってみていただきたい。イタリア語読みすれば「ペルソナ」。社会役割の場では、仮面をかぶることでそこそこうまくやっていけるのではないかというのが、私の持論だ。 “自分らしさ”などと言ってみても、戸惑いの海に放り込まれることも多い。そんな場合は、ペルソナ仮面に判断をお願いしてしまえば良いのだ。 交流分析の到達点は、“自分を知ること”、““今ここ”の感情を大切にすること“、自律的に、アサーショナルに”気づき、親和性を目指すこと“の3つである。 では具体的になにを学ぶか?自分のコミュニケーション傾向を知る、負荷がかかった時に持ちがちな感情を知る、意識化することでセルフコントロールする方法を学ぶのである。「他者は変えられない、変えられるのは自分と未来」。そう言われると、ちょっとお説教の匂いを感じるのは、私が未熟者である証明かもしれない。 コミュニケーションは、“やりとり”だ。誰かに発信することが“やり”の部分、それを受け取ることが“とり”だ。しかし、身の回りで行われているのは、“やり”の応酬だったりする。主張の繰り返し。なにかを伝えられて、受け取る間もなく自己主張を発信する。最初の発信者も、相手の“とり”をきちっと受容しないまま、再びの“やり”を発信する。 もうちょっと、大げさに、突き詰めていってしまえば、自己主張のラリーの応酬だったりする。お互いに余裕がない。 交流分析では、コミュニケーション自体を“ストローク”と呼ぶ。テニスとかで相互に球を打つイメージだ。 ストロークには、受け取ると心地良いプラスのストロークと、嫌な気分になるマイナスのストロークがある。ストロークは、人間が生きるために必要な心の栄養である。ストロークが足りないと、人間は心身の健康を保つことができ
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桃栗3年柿8年 梅は酸い酸い13年

コラムを書き初めて、まる3年が過ぎた。 「継続は力なり」。自分で自分をそっと労う。3年を振り返る。私も会社も成長していることは前提条件である。 このコラムを書きはじめたきっかけは、思いがけず組織の代表になったことに起因する。仕事のことなら大体なんでも知っていたが、経営など他人事だった。一般的な知識を抱えていても、それをどう自分に活かすかはちんぷんかんぷんだった。ひと月過ぎるごとに預金残高は心細くなる。途方にくれたい気持ちだった。 わからないことばかり。でも弱音は吐きたくなかった。社内の意思疎通は十分にはかれていたから、不安や苛立ちはダイレクトに伝播する。確固たる自信がなかった。けれども、組織を下降させる気も、投げ出す気も、かけらもなかった。 大体さ、社長ってなにすればいいの?テレビを注意深く見ていても、ステレオタイプの行動しか浮かばない。出社したらお茶淹れてもらって、新聞読んで、そのあとどうするの?秘書が出てきて、本日の予定を通知される。“今日は何時から○○さんと面談の予定が入っています”、“そのあと、このレセプションに顔を出していただいて…”、誰も私になど面談なんて申し込んでくれないし、出掛けていくとこだってない。“社長になったらの過ごし方”なんてヤフー知恵袋にも載っていないし、グーグル君だって肝心なことはなにも教えてくれやしない。 顔なじみの社長さんに、日々のルーチンをそっと尋ねてみる。しかし、熟練社長の日常など洗練しすぎちゃっていて、下の下の初心者ランクが運用できることは少ない。しかし、様々な、でも自分独自の心構えと覚悟が必要なことだけは、十分に学ばせていただいたのである。 自信となる手持ちがなさすぎて、私には・・よす・がにする明確ななにかが必要だった。ひと月に一度、コラムを書き続けた。そうすることで、切れそうになりがちな弱っちいスピリッツを、必死でつないだ。能力も気持ちも心許なくて、見よう見まねで立てた事業計画片手に、焦りで走り出したくなる気持ちを必死で抑え、なんとかかんとかやってきた。目の前のことを精一杯やろう、うまく行くことばかりじゃないけど、前だけ見ていよう。ひと月乗り越えるごとに、まぐれ勝ちみたいな居心地悪さは軽くなっていった。 コラムを読み返す。自分の来し方に一区切りつけるみたいに。 3年という月日を使って、私はな

They become unwell

怪我はちょこちょことするけれど、体調を崩すことは滅多にない。だが、崩れるとなるとあっという間である。 膝から下がつめたい。夕刻前に“体が冷えている”感覚があった。おなかも痛む。朝からトイレに行っていない気がする。これが世にいう膀胱炎か?おなかから下が自分の体じゃないみたいだ。 自分の体のはずだ。なのに今、この体はよもや誰かに支配されている気がする。吐き気がする。胸の後ろだか、背中だか、腰のあたりだかが鈍く痛む。痛みが胴体のなかを徘徊しているような気さえしてくる。息が苦しい。消防署に連絡し、夜間当番医を聞いて診察をお願いする。 「おなかが痛いんです。診てもらえませんか?」、「症状を教えてください」。症状を伝え、膀胱炎かもしれないと伝えると、「お水を飲んで今夜は我慢し、明日来てください」と言う。明日は仕事だ。外せない予定がある。「なんのための当番医だ」。毒づきたくなる心を体に押し込め、仕方なしにドラッグストアに駆け込む。膀胱炎の薬を買った。 …動けない。無駄に頑丈な体なものだから、今のこの症状が緊急事態なのかどうかわからない。救急車か?いやいや、容易に世間様のお世話になるわけにはいかない。 もう一度当番医に掛け合う。「動けない」と伝えると、診察を許され、裏口の連絡口を案内された。 診察の際、今晩中に痛みをなんとかしたい、注射なり点滴を打ってくれとお願いした。超音波をとりながら、ドクターは余裕のある笑みで、「脱水症状を起こしています。水分取っていないでしょう」、「それから石が見えますね、水分はこまめに取ってください」。自己判断で、市販の薬を飲まなくて良かった。ひと安心したら、看護師さんまで天使に見えてくる。「注射はしません、抗生物質を出しますね」。 体が不調だと心は弱る。「痛い」感覚にまるごと支配された。健康じゃなくなった時の心細さを思い知った。あらためて健康でいることの大切さを知る。 翌朝、母から電話があった。 入院したという。ここ最近、持病を見てくださっている主治医が変わったので、服用する薬も変わった。そんな折、2回目のワクチン接種をしたものだから、体内が大騒ぎになってしまったらしい。血糖値が異常に上昇したにもかかわらず、通院するのを拒否し続けた結果の入院である。 急に入院となってしまった母の心もちを思うと胸が痛む。こんな時期だから、

communicative disorder

基本、仕事中の個人携帯には出ない。忙しい朝の着信も。朝から今日1日に差し障るようなニュースを突き付けられるのは気が進まない。それから、母からの着信もできるなら朝は受けたくない。些末な用件であることが多いし、長電話になることが想定されるからだ。 母の話は冗長だ。仕事をしている時間帯なのだから、結論から伝えてほしいんだけどなあ。お母さん、今聞く話か、かけ直すか、判断材料をくださいね。込み入った話なら夕方実家まで寄れば良いだけの話だ。 しかし、こちらが手が離せない時間を見透かしているかのようなタイミングで、いつも電話は鳴るのである。そして、うっかり出てしまえば、丁寧すぎるプロローグからはじまって、予測不能な結末まで先の見えないままに聞く羽目になる。 去る日の用件は、母の日に送った鉢植えのクレームである。うっかり客先の駐車場で電話を取ってしまったものだから、約束の時間を気にしながら付き合う羽目になった。テッセンの花の色が良くないとか、なかにナメクジがいたとか、母の申し立ては12分に渡った。詰問調の言葉とは裏腹に、声音があまりにも弾んでいたものだから、口をはさむタイミングを逸した。表向きの内容は文句だが、核はお礼のようである。ずっと聴いていないと言いたいことがわからないのである。 ある日は、父の日常に対するグチのようなことを話すので、気楽に相槌を打っていたら、結論は「会社の機械に手を挟まれて、救急車で搬送された」という緊急連絡だったりする。母の電話はいつだって油断ならない。 仕事上、セミナーなどで散々コミュニケーションの大切さを説いて回るが、どうも親とのコミュニケーションはややこしい。 事業承継や世代間ギャップの課題は、実はお互いの意思疎通だ。親は「言わなくてもわかるでしょ、前提条件あるでしょ、背中見てきたのならわかるでしょ」的なことが当たり前。 けれども、子ども側からしたら、「言ってくれなきゃわからん、背中見たけどわからん、答え合わせさせてくれなきゃ不明瞭でしょ」など、親の言葉を鵜呑みにできる自信はまだ持ちあわせていない。 理解してもらおうとすれば、都合の良いように受容される。齟齬を解消しようと試みれば、とたんに捩れ出すし、辛抱強く紐解こうとすれば、こちらが提示したテーゼは、原型をとどめないくらいの別物になる。 そうなると、せっかく勇気を出して持

You are very important to me

毎年定例でお引き受けしている講話や研修がはじまる。 産業カウンセラーや、キャリアコンサルタントとしてお引き受けするので、コミュニケーションが根底にあるテーマで展開する。具体的には、社員研修、人権、企業・個人向けのキャリアマネジメント。同じテーマでも、管理者と一般職、年代によって、主題やアプローチを変える。参加される方の聞きたいことや役割や視点は様々だと思えば、同じ内容はあり得ない。都度都度、不足しがちな脳みそを活性化して苦戦する。 「準備なんか必要ない」境地に到達できるのは、まだまだ先のようである。 研修を引き受けたきっかけは、先代が30年前から手掛けてきたシニアのライフプランがメインのテーマだった。 人生の総決算的な資産管理に結びつくものだったけれど、残念ながら私に資産管理について伝えたい思いはあまりない。なので、人生の総決算は、“自分らしさと思いを遺すこと”に置き換えてやらせていただいている。 機会があって、都度たくさんのテーマをいただいてきた。“心”や“コミュニケーション”が根底にあるテーマは無限である。なので引き受けられる分野も自然広がってくる。 最近は、交流分析の研修も請け負っている。コミュニケーションを視覚化するこの学問は、すごく明瞭で、“方法”を知りたい人々に勇気のもとを与えられるテーマでもある。 しかし、私自身は、子供の頃から“コミュニケーション”は苦手だ。 子どもの頃から、母にはいつも「人としゃべらなくて済む職業を選びなさい」と言われてきた。なのに、今している仕事は、ほとんど真逆の仕事だ。それは私が人と関わることに苦労してきたからである。必要であっても簡単なコミュニケーションが取ることさえできない気持ちがよくわかる。 そうすることがbetterだ、そうしなければならないと思う局面で向き合わなくてはならないことがわかっていても、勇気が出ない。弱っちい心もちに鞭打って行動しても、思うように伝えられなかったり、うまく言えない自分を責める。自分自身に「ダメ人間」の刻印を押して責め続け、ざわざわと収まらない胸を抱えていなくてはならない苦しさ。嫌いな自分を厭っていても、そんなだめな自分として生きていかなくてはならない絶望も痛いほどわかる。 そんなだから、いつまでたっても器用に割り切った講義ができない。「与えられたテーマだけ伝えれ

山の宿(一切の鳴り物を禁ず)

久々に遠出をした。山の上の温泉宿である。 昼食はドライブスルーで買ったマック。コロナ禍での自粛時期、後ろめたさを抱えてのんびりと4号線を北上する。 客室10部屋に対して7つの風呂、なので他客と顔を合わせることはほとんどない。ないと言えば部屋には冷蔵庫もエアコンもない。周辺にはコンビニどころか、店も自動販売機すらない。この宿の素晴らしいところは、大型連休だろうが正月だろうが、割増がなされないことだ。 硫黄で真っ黒になった小さなお社と、輝くばかりの多様な新緑に歓迎される。白濁の源泉と、気配りとルビを振りたくなるような女将が評判である。鈴が気持ちよく転っていくかのような声、「また来られて幸せ」と心から思わせてくれる、まるで昨日の続きみたいな親しさ。 この温泉地には、昔から「鳴り物を一切禁ず」というしきたりがあった。湧泉に誇りを持ち、宿での遊行は厳しく制限されてきた歴史を持つ。「大地の恵みである源泉と、山麓の精気が魂のご馳走」と。 ここの魅力は、来る方すべてに気持ちよく過ごしてもらおうという理念。痒いところに手が届く。こちらの要望を見越しての配慮。馴れ合うことなく、お互いの品格と秩序を保持しあおうとする心づもりが、自ずとこちらにも生まれてくる。流石だなあ。 ロビーにある書棚から、下界にいたら決して読まない小難しそうな書物を持ち込んで隠遁する。万葉集を読み解くための萌黄色だかの解釈がある。どっちも黄緑だか蒼っぽい緑だかと思っていたが、陶芸の世界では幅広い色を表すらしく、黄色から草色、朱色、はたまた枯れ木の色までこの名がつけられているそうな。「総じて萌黄色は山の色」などとまとめられてしまえば、昔は時の移り変わりさえも含んで、神羅万象に名付けていたのかと驚かされる。 内風呂の窓を開けると、硫黄で真っ黒になった昔からのお墓の群れが見渡せる。はじめて来たときは怖かったけれど、最近では、この湯とこの地をともに愛する共通項をもって、墓石群に親しみさえ感じる。窓から見える景観に声をかけ、お湯をすくって感謝を伝える。 涼みがてら露天風呂まで散策する。仲良くなった新緑たちの名前を知りたくて“picture this”なるアプリの力を借りる。男羊歯、舞鶴草、この枝は紫陽花。この葉の持ち主はヌマミズキ。湿った倒木の上を埋め尽くしているハナゴケを発見する。 女将の

春光

葉桜である。新緑である。ちっちゃな体に色とりどりのランドセルである。これぞ春、キラキラだ。 久々にのんびり過ごす。淹れてもらったお茶がおいしい。ベランダに出ると、黒々とした土と、すくすくと5つの双葉を抱えたプランターがある。この土は栄養価が高そうだぞ、買ったら高いぞ、双葉も爽やかだぞ。なによりきれいに並んで、日曜朝にTVに出てくる戦隊もの5人レンジャーみたいじゃないか。いやいや、えっとなんだこれ?なぜ、プランターが屋根の上にあるんだ? 聞いてみれば、「Twitterに上げるんで家庭菜園はじめるって言ったじゃないですかあ」の答え。そうかそうか、家庭菜園か、なんだか豊かでいい感じだ。そういえば、ウチには植物とガーデニングを愛している人達が多かったな。さて、この双葉ちゃん5人組は大きくなったらなにになるのかな? え?はつか大根?まわりが赤くて、中身の白いやつ?え?ナマで齧るの?と思っていると、「これが収穫出来たら、次は白菜いってみますかね」、「いやキャベツがいいよ」、「えー。楽しみ」などみんな楽しそうである。 デリバリーカーで買ってきたチャーシュー丼を頬張っているK女史、手の込んだお家カレー食べてるT女史、ペヤングとコロッケ食べてる課長。ねえ課長、キャベツできたら、ちぎってチンして、そのペヤングに入れちゃうわけ?想像しただけでワクワク来るねえ。けれども、事務所のなか、わりと結構な匂いするんですけど。そんなこと言ったら、空腹が故にひねくれているように聞こえちゃうかしら。なんだろう。猛烈におなかがすいてきた。 白菜は水炊きにするの?それとも豆乳鍋?なんなら樽買ってきて、キムチもここで漬けちゃおうかって。わいわいがやがやなんでもないこのお昼のひと時、なんだかとても幸せなんである。 メンバーの多様な価値観を揉んでも、オサレなカモミールとか、レモングラスとかには傾かなかったよう。実を取る前提で植えたらしい。花より団子のその感性、さすがウチらしいな。考えた結果のチョイスも、なかなかセンスがある。 プランターの種類を選定し、土はO女史ばあちゃんチの肥沃な庭から調達し、種を撒いて芽が出たところで間引きして、今、ピカピカの“はつか大根レンジャー5人隊”だ。植えるまでのそんなワチャワチャな過程を想像するだけで、なんとも柔らかな種が干からびている心に芽生えてくる。