東京都知事選挙である。 出勤前の情報番組で、選挙の様子をチョイ見する。 安定感ある現知事を、キレッキレの女性候補者が食いつこうと、躍起に距離感縮めを図っている。強気の挑戦者。おかしなもので、2人の発するメッセージはとても良く似ている。「てにをは」変えて、先手の発言を若干ずらして再発信する。 口にするのは公約だけれど、底にあるのは強い対抗意識。自らの存在を聞くものに刻み付け、優位を目論む。意識強いな。そっちの戦いに気をとられ、政策、公約が響いてこない。 先月下旬に大きな虹を見た。世界観が変わった気がした。丁寧な暮らしをしている人を訪ねたことも影響しているだろう。なら私もと、日常を丁寧に過ごしてみようと決めたのだ。見過ごしてきたものをフラットに受け止めて、普通に自然に実践しようとしている。 殺風景だった部屋に観葉植物を置いた。仏壇の造花をどけて、朝一番に生花と果物を備えるようにした。庭に花を植え、毎朝たっぷりと水を撒く。えへへ、エッセで特集されてるみたいな「丁寧な暮らし」みたい。今まで関心を持たなかったことも、丁寧に関わって過ごしてみよう。 過日は親友のお母さまの葬儀があった。喪主の挨拶に胸迫るものがある。淡々と語られたのは、2人で育んだ確かな信頼と家族のカタチ。入り口に飾られた三世代揃った、どれも満面笑顔の家族写真。心打たれる。今更ながら親友のことが50年大好きでいる理由がわかる。通夜と告別式、両日参列しても役立てるわけじゃないが、彼女の悲しみに精一杯寄り添いたかった。 通夜がはじまる前に旧友たちと慌ただしく近況報告をしあう。2日間、旧友と一緒に過ごした。出棺のタイミングで帰路についたけれど、ふと「せっかくだから昼食でも」と声をかけるのが礼儀じゃなかったかと思い及んだ。しかし、あちらからも誘われなかったな。もしかしたら普通に考えて、思うよりも距離があるのかも知れない。 一昨日、知り合いにつきあった席で、洞察力があるという不思議な人に会った。話題は「ヒトを見る目」について。知り合いがいたずら心で私を指さし「このヒト、どんな人に見えます?」(やめてくれよ)。私をじっと見つめ、彼の人は口を開く。「裏表なく率直。大人なのに正直すぎ。なので敵も多い? あら、失礼」。あら、失礼? 初見なのによくまあ言ってくれますね。 知り合いがキャッキャッと笑う。
南東の空に虹である。梯子の形をしている。夕間暮れ、激しい雨が降ったあと、ほんのり淡い七色を抱えた虹だった。 スーパーの駐車場で北東の空にも虹である。さっきの虹と雲の上で繋がっているのだろう。てっぺんを見せない遥か。その2時間後、親友のお母さまの逝去の報せを受けた。「ごめんね、そんなだから明日行けないんだ」。週末に彼女の知り合いの絵を見に行く約束をしていたのだ。 一晩1人で行くかどうか考えあぐね、どっちつかずな状態でそれでも来てしまった。 こじんまりした画廊。受付で名を書いて中を見渡す。真ん中にソファセットがあって、作家と談笑している文化レベル高そうな子連れ家族。眩しさを避けるように人がいない方へと足が向く。 小さい額が並んでいる。目玉作品は眩しい方にあるのだろう。今日は人がいない絵を鑑賞したい。花弁が零れるサクラ、暖色の花、そして青草。月のような、お日様のような、空にかかる黄色い丸を携える富士の山。 北の窓際に、凛とした白い花が夏らしい姿でさっぱりと活けられている。そして寛ぎを誘うロッキングチェア。富士山の独特の色合いに見惚れながら、日本の普遍的典型の好みを持つ自分に苦笑する。買うとしたら、自宅の玄関と書斎の白い壁とどちらに映えるだろう。眺めている自分の姿を想像する。手持ちもないのに買ってしまいそうな気持が勝る。 いつのまにか作家が隣に来ている。「富士山と言えば片岡球子でしょう。印象が強すぎて、今まで気が引けてきたのだけど、急に描いてみたくなったんです」。名刺を差し出す店長にコーヒーを勧められ、折角なのでロッキングチェア拝借の許諾を得る。やっぱり富士山良いよなあ。ぎこぎこと、気づかれないくらいの音で椅子を揺らす。富士山と見つめ合う。欲しいなあ。勇気がいるなあ、どうしようかなあ。 「似たようなデザインがあちらにもあります、並べましょうね」え? あ、でも、はい。もごもごしているうちに、3枚の富士山が並んでしまう。「夕方の月ですか?」と尋ねれば、「月にも太陽にも見えるように描かれているようですよ」との答え。「そうですか、見る方が決めるのですね」。 すまして座す標準的な富士山、若干スリムですっくと高みを覗き込むような富士山、下方に繁る木々たちと一緒にいるのを楽しんでいるような平和な表情の富士の山。 「失礼ですが何か作られている方ですか」「いえいえそ