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1月

1月は繁忙期。 キャリアコンサルティング技能士試検。面接の実技は2級が1月、1級が2月。休日は集団指導。平日は連日の1O1のオンラインレッスン、先生モードスイッチオンである。 国家資格であるキャリアコンサルタントには、レベルが設けられている。キャリア技能士2級は「熟練レベル」、1級は「指導者レベル」。実技試験は、論述試験と模擬面談によって能力を示す難関試験である。ちなみに合格率は2級で17.73%。1級は6.55%、全国での1級技能士取得者は、694人(2024年時点)。 試験も2級は年に2回、1級は年に1回だから、今は追い込みの時期、年が明けてから、連日20時からの個別指導が入っている。 面談の練習になるので、生徒さんの特性に合わせた内容となる。実力があって、その上を目指す方々が対象だから、皆さんそれぞれの経験から力をお持ちである。そしてそれぞれの良さと課題がある。 レッスン中はこちらもとにかく必死である。なにせ、高いレッスン料をいただいているわけだから責任がある。継続指導の場合も多々あり、現状の課題の記録と、課題をどうクリアして、もしくは長所にご自身で変えていただくわけだから、こちらも相手に合わせた指導方針の組み立てが必須となる。対峙するエネルギーはもちろんだが、現状に合わせた指導計画にも力を使う。 そうしてそういう方を相手に指導するのだから、こちらも普段からスキルを磨いていくことは必然で、実は自分の学習時間と費用もばかにならない。責任あるもんね。悠長にしていられないもんね。月の2割くらい費用をかけてブラッシュアップする。その努力を苦しいと思ったことはないが、12月から2月は特に。毎日が緊迫感とともにある感じである。 気休めにドラマを見る。動画を見る。電子コミックを読み漁る。高揚感を鎮めるためのトーンダウンが目的なのに、TVを見ても、ニュースを見ても、朝のワイドショーを見ていても、みんな戦ってるんだなあという、受講者目線で見ている自分がいる。 たとえば警察24時。警察の方々もそうだけれど、罪を犯してなんとかこの場を免れようと、警察官にお世話になる側の方々の戦い方にも見入ってしまう。 それぞれの戦い方があり、その根底にある思考や感情が行動のもとに流れている。ふだんからこんな切羽詰まった考えで、モノを見ているわけではない。しかし気になって...
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ERA 2025

月を見上げる。冬の月である。 宵闇の時間。この上が飛行機の幹線航路であることを知る。月の脇を赤と青の点滅ランプが過ぎていく。 12月。変化の1年だった。自分のこともそうだけれど、世の中のできごとも然り。只中では気づかない。立ち止まると見えてくる。流れは、節目は、こんな形で訪れるのだ。最中は気づかない。振り返るから節目がつく。そんな気がする。流れに飲まれているのも悪くはない。しかし、自覚がなければ評価も生まれない。 まだまだ進んでいかなきゃな、元気でいなきゃいけないな。生き延びるのが人生なのだ。現状維持は衰退の入口。変化を進んで受け入れなければ、健全は少しずつ、でも確実に失われていく。変化のさなかは、妙な静けさのなかの膠着に耐えていくことなのかもしれない。 組織の定期面談をする。これは月次のお仕事。 相談者は多様である。個性も価値観も、働く場所も環境も、役割だって違うはずなのに、不思議なものでその時期特有に、個人の訴えには共通している課題がある。 人の受け取り方、感受性や季節的な環境と人との性質の呼応が、共通するのか、共有する意識が変化を呼び寄せるのか、それともそもそも日本特有の課題なのか。実は、大きな磁石みたいなものを、経過する時間が含んでいて、潜在的に人の心は同じ方向を向いてしまうのかも知れない。 言えない人、言わない人、仕方がないと口にする前に諦める人。責める人、嘆く人、斜めに構えて目の前のできごとにフォーカスせずに、自分の内部に答えを見つける人。 多様な表面を持ちながら、抱えたものを吐き出すのを躊躇うのは世の常だ。防衛機制は自分を守る盾である。口をつぐんでいた方が無難であることは間違いない。そう思いながら自分自身を振り返る。不思議だ。自分の心がそういう人たちを引き寄せているような気持ちになってくる。心許ない。そう思う自分自身の在り方が、似たような悩みを吸い寄せているような。そんな気持ちを抱えていると、相談者はこちらの気持ちをまるで見透かしたように、同じような心持ちを口にする。エスパーなの? なんで私が思っていること、わかっちゃうの? ほんとうはカウンセラーは私じゃなくて、あなたなんじゃないの? 変化の話に戻ろう。 積極的に動いてはいけない時がある。結果を出すには行動しかないと思える時もあるけれど、じっと内側を考えていかなければ...

ホープ・アクション・アプローチ

お金はエネルギーである。そうして時間もお金と同じ意味を持っている。 お朔日に通う神社の例大祭に参加している。 一年に一度しか開かない本殿の扉、年に一度しか入れない社殿と本殿との間の中庭。好奇心に負けて、私にとっては大枚はたいての参加なんである。 祝詞からはじまり、収穫された旬の野菜、お頭つきの鯛、果物や新米を丸めた餅、たくさんのお供え物が、たくさんの神職の手で運ばれる。親善の前では膝で進むのが決まりらしい。目の前で執り行われる儀式は、もちろん非日常なんである。   ほぼ飛び込みの参加なので、私の席は末席である。めったにない機会だから、好奇心に白旗上げてあれこれ堪能したいのに、目に入るのは大勢の人の後頭部なのである。 神聖な時のはず。前の女性が耳裏に忍ばせた香水がきつい。集中が持たず、週初めの会議を考える。きっと思う通りにはいかないだろう。予定したタスク、すんなり通すことができるだろうか。 昨夜は研究会だった。テーマは「ホープアクション理論」。持続的な希望の維持。コンピテンシーは5つ。自己啓発力と自己明確化。そうしてビジョンと目標設定。そうして実行力。言葉で並べるとその通りなんだと思う。でもさ、行動は…と、現実に落とし込む想像も持てない。立てた目標に私たちは適応していけるんだろうか。苛立ちが立ち上がる。 最近は内省ばかり。内省に足をすくわれ、計画は順調に運ばない。風が吹いて、ケヤキが一斉に落葉する。参列している人たちから、歓声が上がる。 例祭が一通り終わり、参加した神職の紹介がある。日が良いので、境内に集まっている七五三家族の賑わいも聞こえてくる。オウムのピーちゃんが何やら騒いでいる。 紹介される神職の順番が気になる。フラットを自認しているのに、与えられた末席を気にする自分に驚かされている。 神前は今日一日扉を開けておくそうだ。神前の白布に注がれたたくさんの時と、多くの祈りを考えている。 直来。例祭の終了後に神前に供えた御饌を神職と参列者でいただくことを指す言葉だそうだ。でも、なんとなく年配のおじさんたちとの飲み会のように感じてしまう。あちこちでお酌しあう会の場で、決して酌婦になぞなってたまるかと、頑なに身構えている自分がいる。 となりあった男性は、今年から氏子の会長になった方だ。まだ新米のようで、年配者からの教えが降り注がれている。...

100万回生きたねこ

秋が来た。やっとの秋、待ち詫びていましたぞ。街路樹の葉先がオレンジ。黄色、緑のまだら変色が始まっている。 親戚が集えば、自然、近所のダレヤカレヤの話になる。若い頃なら、話題はおめでたごとが主流だったけれど、メンツはもう若くはないので、病気や施設入所、はたまた鬼籍に入った人の話になる。「92までは元気だったのにねえ」「わからないもんだよねえ」。そもそも実家のご近所さんの話題に疎い身としては、話題には入れない。孫と一緒に茶菓子をつつきながら、手持無沙汰なんである。 「ばあばは4桁生きて」。 孫からの不意打ちの耳打ちである。 4桁というと最低でも1000歳? 「うん」いくら可愛いあなたのお願いでもねえ、それはちょっと無理だなあ。叶えてあげられるようがんばってみたいけどね。孫の表情が曇る。なんだなんだ? 急になんでそんなこと言うの? ふふふと孫は答えない。 夢を見る、目が覚める。さえずる雀、玄関先に立って空をみていると、求愛活動なのか、グループ活動なのか、伝達しながらピヨピヨ飛び回る、楽しそうだ。そもそもこれって雀なの? 無知を楽しむ朝の空。幸せだ。 世界がサラになったような朝。本格的な秋の到来。空気が違う。空にはたなびき美し模様の雲。単に昨日の続きが連れてきた朝じゃない。もしかして夢の続き? 朝の瞑想ならぬ、朝の妄想。違う世界にパラレルした気分を味わう。私ではないだれか。新しい人生。能力にあふれて、万能感に満ちた一日が始まる。資金繰りも、ぐるりの環境も、ニーズを満たせていない現実を考える必要のない私じゃない誰か。もやもやなんてどこ吹く風。どうせなら、マイナス10キロくらいの細身スタイルのビジュアルがいいな。 集積所には“燃やすゴミ”が積まれている。今日は水曜日か。途端に現実に引き戻される。あーあ、なんだかちょっと楽しい気分だったのにな。 内閣が変わった。高市総理の誕生だ。女性とか男性とか区分して考えるのは好きではないものの、なぜか新鮮である。偉い人のこと。十分発言には考慮を重ねて発するのだろうけれど、この人の言葉はまっすぐ寄り道せずに届いてくる。正直で率直な言葉である。大きな笑顔、艶々な髪。髪はいずれにしても、笑顔自体がこの人の大きな武器なのだろう。この笑顔と正直さで、この人は目の前の道を歩いでいくのだろう。次々繰り出される障害を、上手に避けたり、...

水の流れが生みだすもの

しもつけ21フォーラムに出かける。今月の講師はオタフクソースの代表取締役社長、佐々木孝富氏である。 「なんてったってオタフクソースが一番よ」と、生粋の北関東生まれ義姉のイチオシソース。コアなファンが多い背景に、独特のファン文化がある。今日は、そんな会社の社長さんのお話。席には、お土産品の「お好み焼き粉」と「ウスターソース」が並び、どうやらサービス精神がすごく豊富な方の様子。なんだかうきうきラッキー気分である。 講師登壇。オーラがすごい。って言うか、瞳キラキラ、発見力と好奇心が発露しちゃって、一目瞭然アクティブ社長。映し出されるPPT資料も洗練されて魅力的。コナモン愛が溢れすぎてワサワサと零れている。 スクリーンには日光工場が映し出されている。日光は水の豊かなところ、大室から森友をつなぐ清流が思い浮かぶ。 「製品も社員も愛してるんですよ、愛してるもんを大切にするの幸せなんですよ。思いついたことはカタチにして、残ったものは淘汰して、質と誇りを醸成するのが社長の仕事です」を真ん中に据えたお話である。装飾のヨケイモン言葉をそぎ落とし、際立つ表現。力を持った言葉は、迫力をまとって投射される。 そう、放たれる言葉は、煮詰めに煮詰めぬいた結実みたい。日がな365日、一日24時間、四六時中の3乗くらい、思いを重ねて凝縮した言葉。一つ一つが、研磨の登竜門を潜り抜けたメッセージ。熱量よね、愛よね、なんだかメッケモンみたいな一日だわ。そういえば今日の私、コナモンだの、ヨケイモンだの、メッケモンだの、モンモン言っちゃって、シンパシーを投げ込まれてるんである。 「何かを伝える」作業は技術がいる。 登壇者の話を求めて足を運ぶ者が大多数なら、場に合わせた話題でも十分盛り上がるし、会としては成功だ。 この「求めて足を運ぶ者」を市場に置き換えてみたらどうだろう。商品を自ら求める人々が会場を埋めたなら、それぞれ自ずから手を伸ばして、かごに入れたらレジまで運んでお金を払って帰っていくのだろう。その場に陳列しておくだけで。 そして、佐々木社長。生き生きと、話されるのはご自身の生き方そのもの。凝縮させた「主体」そのものをカメハメ波の乱光線みたいに放射する。 話術はもちろん、パッションとミッション、ぶれない目的、柔軟に変化を受け入れつつ絶えず調整される目標。ここで発露されるのは、...

サノヨーコ、サノヨーコ

「神も仏もありませぬ」。そうか、いないのか。なんかバチあたりだぞ。 天下無敵の佐野洋子先生の単行本のタイトルである。思わず、「残念なこと」と頷いてしまう人もいるのではないか? 先生の言葉には魔法のような説得力がある。 佐野洋子と言えば、「100万回生きたねこ」。佐野洋子と言えば、偉大な詩人、谷川俊太郎氏の奥さん。大らかでありながら、時に見る者をきゅっと緊張させちゃう過敏な神経質さも垣間見せるような絵を描く。なんてったって名前がかっこいい。佐野洋子。あの谷川俊太郎のハートをずきゅんと射止めちゃった人とくれば、自動思考で都会風な線の細い女性を思い描く。骨太な骨格をウェーブのかかった長い髪で和らげて、少し「気取りん」的な。そんな魅力を持った人…いやいや、それは山本容子さんだった。 そんなサノヨーコ像を思い浮かべながら、おずおずとページを進めれば、「生命力」そのものの言葉の塊。生命力が昇華しちゃって、すでにもう神様と仏様じみた領域。大爆笑つづきのハッピーな時間を提供される。 なんだなんだ? 佐野洋子ってスカした絵描きじゃなかったの? 発言はコンプライアンスまるで無視の言いたい放題。かの上野千鶴子さんの上を行って、ズバンと直截的な物言いが魅力的。まっすぐ思ったことを飾ることなく暴露する。なのに、鮮明に保っている幼い頃の記憶、心持ちの表現は、微細、しかも繊細、表現力の神様だ。しかしまあ、こんな直截に言い放っちゃってさ、倫理規定にひっかからなかったわけ? ウィキ先生に尋ねれば、それはそれはの輝かしい経歴。ムサビ(武蔵野美術大学)卒業だから、さぞかしお嬢様かと思いきや、そうではないらしい。画像検索してびっくりした。長髪じゃない(けどショートカットの髪はツヤツヤだ)。随分丸っこくて土臭い。 谷川俊太郎とのちょいエロな共作詩集「女に」を想像していたけど、6年で早々とサヨナラしてしまっている。 お住まいは軽井沢なのね、どのあたり? と思い馳せれば、10年以上前に亡くなっている。残念である。非常に残念だ。 臆せず言いたいことを言って、飾らない。すごいのは、事象を「感じたことそのもの」で語る姿勢と、心を微細にさらけだし、それでも大いなるものに畏敬の念をはらって生きる謙虚さをサラッと挟み込んだ表現力。字でも絵でも、その才覚はとんでもない。自由ってこういうことなのね。才能があ...

1945年7月13日

「宇都宮で大空襲」2025年7月13日 日曜日、下野新聞特別紙面の第一面である。 7月9日、しもつけ21フォーラム例会、若菜社長の挨拶。 “「7月13日は、我が新聞社にとって特別な日。わが社の歴史上、新聞が発行できなかった日は過去2日。その一日が7月13日でした。宇都宮が空襲の火に焼かれた日」 「13日は特別紙面を発行します。昭和20年7月13日当時の写真に、AI処理で色をつけました。毒々しい色合いになったかも知れない。でも、ぜひご覧ください」” カラー写真である。でも、9日の言葉を聞いていなかったら、受け流していたかもしれない。 夜明けが映し出した街。呆然の朝を迎えた人々が見た場景だ。ざらついた空気が肺に送りこまれる感覚がある。裸足に、地面が伝える爆熱の名残。夜中の火の熱、容赦のなさを示す、コンクリート建造物の煤けた外郭。中にあったはずの記者の活動成果、什器、そして人、そこにいた人。そして襲撃前まであったはずの感情、魂。瓦礫。昨日までの景色。損なわれていない情景。被害にあったのは9173戸、亡くなられた方は620人超。 夏の下野新聞は、毎年、戦争の記録を生々しく紡ぐ。 昭和20年7月28日、東北本線小金井駅列車空襲。見下せば、真っすぐ走る線路。パイロットの機銃掃射は、単に余った弾薬を処分しただけかも知れない。空から見れば、視線を遮るものはない。電車は隠れようがない。電車の中にいた人たちにも逃げ場がない。何年も前の記事だけれど、あたかもそれを見知っているかのように、刻まれている。 毎朝、広範囲の情報を命がけで届けた戦時中の新聞。おそらく紙面は戦下情報しかなかったかもしれない。朝に新しく届けられる情報を、人々は待ち望んでいたにちがいない。 戦下をくぐりながら取材し、見出しを考え、より伝わる文章を練って、発行する。毎日命がけで集めた情報が、朝届けられる紙面になる。1日ごと、見て、聞いて、感じて、考えて、無形の情報を、記事に変換した形を与えられたものが記事になる。目の前で起きていることを、市井に伝えるために奔走する。1日はあっという間。それを果たせなかった13日の朝。建物の外郭には、記者たちの魂そのものが立ち尽くしているように見える。 家族の無事、離れている大事な人の無事、食料調達、残酷に直面して耐えている子らの傷。個を犠牲にして、自らの役目を...