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神様

母と久々のデートである。 スペーシアXに乗っての旅。実家まで迎えに行くと、車中にスタンバイした父が「駅まで送る」と待っていた。母の所在を問うと、急かされて先に駅まで送って行ったと言う。「楽しみ過ぎて待っていられないって言うんだよ」駅ではおめかしした母が改札の前で待ち構えている。 Suicaを出そうと母がバッグをかき回している。何枚かお札を入れたお財布が、あちこちのポケットからいくつも出てくる。一体いくつ持ってきたの? スペーシアXのリクライニングシートに乗り込み、母ははしゃぎ出す。大きな窓から差し込む光を眩しそうに避けながら、とても幸せ気分なんである。 千疋屋でお昼をいただく。おなか一杯で、本音を言えば動くのが億劫だ。 しばらく歩くと「疲れると、お父さんに腕を組んでもらうの」と母が言う。そうか、私が座っていたいと思うなら、母はもっと億劫にちがいない。心配になって父がするように腕を組めば、ぎゅっと手を繋いでくる。息が上がっているのを感じる。案の定、「羽田空港なら歩く歩道があるのにね」ここで待っててくれる? 交番で管理事務所の場所を聞き、車椅子を借りに走った。 母が迷子になることはないだろう。思いつつ気持ちが焦る。 祖母の介護で使いこなしてきた自負もあって、車椅子の扱いは慣れている。小走りで最短距離を目指すうちに、段差がある通路に出てしまった。後ろ向きになって下りていると、両手がひょいと軽くなる。後ろから来た男性が、黙ったまま車椅子を私から取り上げて運んでくださっていた。 「ありがとうございます」。後ろ姿に声をかける。男性は、片手を上げて応えると、振り向きもせず行ってしまった。思いがけず、心に灯った温かみを噛み締めて母のもとに急ぐ。 「車椅子なんて。あなた大変じゃない」言いながらもほっとした表情に、また幸せが加算される。車椅子を押しながら、思い至るのは美術館前のエスカレーターだ。畳んで乗れば行けるだろう。母にはその間立ってもらって、なんとか大丈夫だろう。 懸念だった。エレベータがある。すいすいと車椅子を押していくと、警備員の方が親切な声をかけてくださった。 人が多くて、座ったままでは絵が見えない。「ゆっくり行きましょう」人ごみの後ろから展示された絵を見眺めていく。若い頃の繊細な絵。年代ごとに掲示されていて、順に見ていくと個性がだんだんと...
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ナゾのDX

DXとはデジタルトランスフォーメーションの略語である。 デジタルまではわかるんだけど、トランスフォーメーションとなると、ロボットアニメの合体シーンしか思い浮かばない。イメージ先行から抜け出せない少々硬直した脳みそなんである。 そもそもDXってさ、紙の請求書をデータで保存するって理解だったんだけど。しかもなんだか最近リスキリングとセットで語られること多いじゃん。何をリスキリングするのさと調べれば、なんだかとってもぼんやりしていて、もうそこで迷子なんだよ。 都心でSEをやっている息子を捕まえて質問しまくる。 AIはなんとなくわかるけど、とっても便利だと思うけど。チャットGPTのこと言ってるの? あれ、便利だよね。単語入れればいっぱしの文章に仕上げちゃって、行間までちゃんと読んでるレベルだよね。 それにさ、ITとなにがちがうの。もっと言えばICT、お前が小さい頃はOAだったんだぜ。よくわからんのだよ。あんまり的が外れていると恥ずかしいじゃん。だから基本的なことをあなたに確認しておいてから、動こうと思ってさ。 お昼おごるから出てきなさいよと、2人で神保町にいる。 通りすがりの串カツ屋である。 割り勘はしない。だが、気を遣いあうのはお互い面倒。じゃんけんか、遅れてきた方が支払いを受け持つ。以前は懐事情を汲んで、お互い安価なメニューから選んでいた。いつからか、ちょっと良いものを勧めるようになった息子。社会的な大人度を示されているようで頼もしい。安価なささみカツを横目にちょっと値のいいミックスフライを頼む。お子様ランチみたいで嬉しいんである。 ソースは提供されず、何種類かのオサレなお塩と醤油しかない。都民はとんかつを塩で食べるのか? 気に入らないな。「あのね、お母さん。今日は文句多いよ」あらそう?  DX人材を募集したい。できれば若い人。そういう人に秘書もやってもらえると、なんか私嬉しいんだな。でもさ、業務内容になんて書いていいのかがわからないのよ。 どんなことをやってほしいの? えーとね、これをやるためにはこういうことが必要とか、計画をぱっぱとイメージ化してもらえたり、マーケティングっていうの? 対象はこのSNSで呼びかけるのが効率良いとかさ。「他には?」なんか、ちゃっちゃと私が考えていることを図示化してくれるのが、一番有難いのかな。「あのね、...

キリギリスの憂鬱1

「夏休みの宿題っていつやりました?」 手あたり次第聞きまくる。やらなきゃならんとわかっていながら、先送りした末の醜態である。 「アリとキリギリス」は、言わずと知れたイソップ寓話。胸を張って答えよう。キリギリスは私。ちがう。胸を張ってる場合じゃないでしょ。勤勉を卑屈に見上げる情けなさ。親の嫌味を背中に焦りまくった習性は、いくつになっても治らない。懲りない習癖。晴れやかな空に目を背けながら、備えのない秋を憂いている。あーあ。 「宿題なんて、早々に片付なかったよね」の仲間を探している。なんのために? もちろん一時の安寧を得たいのだ。喉から手が出ちゃうくらい欲しい答えなのに、誰ひとり言ってはくれない。 「最初の2日で終わらせた。そのあとのびのび遊ぶために」。あ、そうですか。そうですよね、そんな感じですね。 「最初の3日でばーっとやった。でもね、やりたくないのは残しちゃうの」え、そうなんだ。「でもね、ずっと気がかりなの嫌でしょ、結局すぐ片付けちゃうよね」それはそれはご立派なことで。幼い頃から、さすがだったんですね。「なに?」だってありがちでしょ、8月のサザエさん、カツオくんの毎年定番でしょ。なのに最初に終わしちゃうんだ。ふーん、優秀ですね。「なになに、今日は喧嘩したい日なの? 喜んで買うけど」。いやいや、ほんと、勘弁してください。猛者に勝てる気しないので。 宿題が終わらない。というか、やる気を出す自信がない。やりたくない。9月20日必着。修正提出期限が迫っているのは、2か月前に届いた宿題なんである。 情けない。レポート10枚書いたら、6枚の訂正指示が届いた。「なんだこりゃあ!」松田優作の殉職場面を真似をしても、何の解決にもなりゃしない。 資格取得のためのレポートである。最初に出したのは1月で、3月に発表したら、「条件付き合格」だった。5月に直して再提出したら、7月に再度再度のダメ出しが来た。恐れおののき見ないふりをした。6枚の指示には、「あなたは無能」のメッセージが織り込まれている気がする。どうにも向き合う勇気が出ない。 望んで手を挙げたのは自分だから、評価に異論を唱えるのは筋合いである。 「着眼点はユニークです。ぜひ精度を上げ完成させて発表しましょう」。慰めはいりません。ほんとは✕なんでしょ。気休めをくださったのですか? 熟考せずに...

なっちゃんガーベラ

家人が脳出血で倒れた。 介護認定を受けて、さてリハビリがスタートした。のはずが、デイケアには行きたくないと言い張る。 転んでは歩きにくくなる。転ぶのを怖がる。動けないから一日中横になる。筋力がごっそり落ちる。なのでまた転んでしまう。体力ばかり落ちていく。ますます歩ける距離が短くなる。ケアマネさんの意見も耳に入らない。当然だが、私の声など受け入れない。 「早く終わりにしたい」と家人が言う。「こうなったら生きていても仕方がない」。 なにを言う、早見優(古いギャグでごめんなさい)。あらまあ恥ずかしい。渾身の折角の昭和ギャグが空回る。 今の家人にどうすべきなどという正論は押し付けたくない。このままだとますます衰える。悲観を共有したくもないし、これからのことを固定はするまい。明るさを取り戻そう。そのためには不安げな様子を見せちゃだめだ。普通でいよう。小さくてもいい、兆しの双葉が出たら見過ごさず、これから先の明るい計画を一緒に立てよう。きっとその日は来る。…心に決めても笑い飛ばせない日もある。今は、口から洩れ出そうな暴発を抑え込むだけで精いっぱいだ。 深刻になるのは柄じゃない。優しく接しすぎるのも違う。リビングにベッドを運び込む。今までの生活をひっくり返しながら、なにひとつ変化はないように生活する。 生きる目的を見失うことは酷だ。 考える。少しでも状況が動くよう考える。昨日も一昨日も考えて、今日も明日もその先も、ずっとずっと考えていく。良策が見つかるとは限らない。私は無力だ。並んで眠るリビングで、家人には聞こえないよう息を吐き出す。 歩けないので杖を買う。気づくと、まだ必要じゃないものまで買ってしまう。クローゼットに大きな荷物をそっと隠す。祖母の介護をしていた30年以上昔の絶望に、知らず知らず引き戻されている。 「家族旅行、楽しみだねえ」唯一家人が楽しみにしているであろう予定を、なんとはなし耳に届くようやり過ごす。 子どもたち家族と出掛ける夏の旅が良いきっかけになるよう願う。 3世代、12人の大移動。娘家族と一緒に新幹線に乗り、次男家族は車で合流する。東京にいる長男は、時間をずらしてのんびりグランクラスで来ると言う。 家人の足は、ほんとうに短い距離しか歩けなくなっていて、観光はすべてキャンセルし、途中で車いすとタクシーを手配した。 プー...

My biggest enemy was myself.

東京都知事選挙である。 出勤前の情報番組で、選挙の様子をチョイ見する。 安定感ある現知事を、キレッキレの女性候補者が食いつこうと、躍起に距離感縮めを図っている。強気の挑戦者。おかしなもので、2人の発するメッセージはとても良く似ている。「てにをは」変えて、先手の発言を若干ずらして再発信する。 口にするのは公約だけれど、底にあるのは強い対抗意識。自らの存在を聞くものに刻み付け、優位を目論む。意識強いな。そっちの戦いに気をとられ、政策、公約が響いてこない。 先月下旬に大きな虹を見た。世界観が変わった気がした。丁寧な暮らしをしている人を訪ねたことも影響しているだろう。なら私もと、日常を丁寧に過ごしてみようと決めたのだ。見過ごしてきたものをフラットに受け止めて、普通に自然に実践しようとしている。 殺風景だった部屋に観葉植物を置いた。仏壇の造花をどけて、朝一番に生花と果物を備えるようにした。庭に花を植え、毎朝たっぷりと水を撒く。えへへ、エッセで特集されてるみたいな「丁寧な暮らし」みたい。今まで関心を持たなかったことも、丁寧に関わって過ごしてみよう。 過日は親友のお母さまの葬儀があった。喪主の挨拶に胸迫るものがある。淡々と語られたのは、2人で育んだ確かな信頼と家族のカタチ。入り口に飾られた三世代揃った、どれも満面笑顔の家族写真。心打たれる。今更ながら親友のことが50年大好きでいる理由がわかる。通夜と告別式、両日参列しても役立てるわけじゃないが、彼女の悲しみに精一杯寄り添いたかった。 通夜がはじまる前に旧友たちと慌ただしく近況報告をしあう。2日間、旧友と一緒に過ごした。出棺のタイミングで帰路についたけれど、ふと「せっかくだから昼食でも」と声をかけるのが礼儀じゃなかったかと思い及んだ。しかし、あちらからも誘われなかったな。もしかしたら普通に考えて、思うよりも距離があるのかも知れない。 一昨日、知り合いにつきあった席で、洞察力があるという不思議な人に会った。話題は「ヒトを見る目」について。知り合いがいたずら心で私を指さし「このヒト、どんな人に見えます?」(やめてくれよ)。私をじっと見つめ、彼の人は口を開く。「裏表なく率直。大人なのに正直すぎ。なので敵も多い? あら、失礼」。あら、失礼? 初見なのによくまあ言ってくれますね。 知り合いがキャッキャッと笑う。...

Iris‘s Synchronicity

南東の空に虹である。梯子の形をしている。夕間暮れ、激しい雨が降ったあと、ほんのり淡い七色を抱えた虹だった。 スーパーの駐車場で北東の空にも虹である。さっきの虹と雲の上で繋がっているのだろう。てっぺんを見せない遥か。その2時間後、親友のお母さまの逝去の報せを受けた。「ごめんね、そんなだから明日行けないんだ」。週末に彼女の知り合いの絵を見に行く約束をしていたのだ。 一晩1人で行くかどうか考えあぐね、どっちつかずな状態でそれでも来てしまった。 こじんまりした画廊。受付で名を書いて中を見渡す。真ん中にソファセットがあって、作家と談笑している文化レベル高そうな子連れ家族。眩しさを避けるように人がいない方へと足が向く。 小さい額が並んでいる。目玉作品は眩しい方にあるのだろう。今日は人がいない絵を鑑賞したい。花弁が零れるサクラ、暖色の花、そして青草。月のような、お日様のような、空にかかる黄色い丸を携える富士の山。 北の窓際に、凛とした白い花が夏らしい姿でさっぱりと活けられている。そして寛ぎを誘うロッキングチェア。富士山の独特の色合いに見惚れながら、日本の普遍的典型の好みを持つ自分に苦笑する。買うとしたら、自宅の玄関と書斎の白い壁とどちらに映えるだろう。眺めている自分の姿を想像する。手持ちもないのに買ってしまいそうな気持が勝る。 いつのまにか作家が隣に来ている。「富士山と言えば片岡球子でしょう。印象が強すぎて、今まで気が引けてきたのだけど、急に描いてみたくなったんです」。名刺を差し出す店長にコーヒーを勧められ、折角なのでロッキングチェア拝借の許諾を得る。やっぱり富士山良いよなあ。ぎこぎこと、気づかれないくらいの音で椅子を揺らす。富士山と見つめ合う。欲しいなあ。勇気がいるなあ、どうしようかなあ。 「似たようなデザインがあちらにもあります、並べましょうね」え? あ、でも、はい。もごもごしているうちに、3枚の富士山が並んでしまう。「夕方の月ですか?」と尋ねれば、「月にも太陽にも見えるように描かれているようですよ」との答え。「そうですか、見る方が決めるのですね」。 すまして座す標準的な富士山、若干スリムですっくと高みを覗き込むような富士山、下方に繁る木々たちと一緒にいるのを楽しんでいるような平和な表情の富士の山。 「失礼ですが何か作られている方ですか」「いえいえそ...

便利な言葉にご用心?

「やばい」という言葉が嫌である。 しかしね、いい年をした大人が、毛嫌いするのは言語道断。 誰に頼まれたわけでもなしに、「やばい」にとことん積極的に関わって、この単語の魅力を考えてみようと思いついたのである。やばいを連発し探求してみることにした。 やばい。やばい、やばーい。よくわからないが、「やばい」と言ってりゃ、コトが足りてしまうみたいなこの感じ。なんだか手っ取り早いこの爽快感。解決なんてしちゃいないのに、とりあえず、面倒なものが横滑りして目の前から去っていく。ちょっと気持ちがいい。 息子の前で「やばい」をつかう。「いい年して下品な言葉は使わない方がいいと思うよ」。「その通り、私もそう思う」。「なら使わないでよ」。 グループワークのシェアで使ってみる。メンバーのうちの何人かが、顔を挙げてぎょっとした目を私に向けてくる。「やばい」という言葉じゃなくて、若くもないのにそれを使う私の品位が非難されている。あらやだ、これってやばくない? 三文字の簡単な単語一つ。感動したり、失敗したり、やらかしちゃったり。ちょっと空気を変えたいんだって時も万能に機能するである。なるほど、こりゃみんな便利に使いたがるわけである。 日常的に軽いコミュニケーションなら十分これでコト足りるのかも知れない。「やっだーあれやばいよね。まじまじ、ほんとヤバい。やっばーい!」これが初見の若い人が、仲良くなれるきっかけにできるのだったら、これはこれでメッケモンのような気もしないでもない。新学期とか、転職した後仲間に入るお昼休みタイムとか、どんな機会が若者にあるのかよくわかりゃしないけれど、まあ標高341Mの大平山の高さくらいの盛り上がりは産むのかも知れない。 便利だなあ、使ってると漠然とした万能感もあるしなあ、わかるわかる。便利、便利、とっても便利。…じゃないのである。なぜだか良くはわからないけれど、「やばい」という言葉、妙にむしゃくしゃしてなんだか許せない気持ちになるのである。 たった3文字で、誰かと諸々を共有したり、複雑な感情を簡単に丸めるなんておかしくないか?安易な言葉のチョイスもそうだが、感情が曖昧なまま置き去りになるのが嫌なのだ。やばさの段階だって、レベル1からレベル10くらいまであるだろうに。希望的な「やばい」から、絶望の色味を帯びた「やばい」だってあるだろうに。だいた...