スキップしてメイン コンテンツに移動

6月

近くの田圃にカルガモがいるそうである。そのカモたちは、親子なんだか家族なんだそうである。初耳である。
カルガモ?20年先ここで田植えの時期を見ているものの、今までそんなの見たことがない。なのにみんな知っている。みんなして見守ってる感まである。事務員さんが言うのには、「小さい頃から知っていてね、可愛いの。あのコたち大きくなったわ」なのである。カモ?カモが小児から成人するのにはどれくらいかかるのだ?あのコたち?アイガモ農法などもあるようである。カモも役割を持たされて放たれているのだろう。

夕暮れ前の時間に、カモを見つけがてら散策する。まだひ弱な稲の苗、田圃の風紋が弧を描きながら移動していく。カモは見つからない。放水も止まっている。静かな午後である。時折、鳩がぽっぽーと鳴く声が聞こえてくる。

小学生の頃、通学路にはたくさんの田圃があった。学校帰りに友人たちと田圃のなかを覗き込んで、おたまじゃくしやカエルの卵を見つけたものだ。アメンボたちが水紋を作り、運が良いとゲンゴロウを見つけることもできた。

足元から白くて小さな鳥が飛び立つ。燕だ。燕が低く飛ぶと雨降りの前触れ、なるほど怪しい空模様である。歩を進める。不安定な空模様に竹林がさあさあと音を立てる。モンシロチョウが落ち着きなく上下にひらひらと舞っている。通り沿いにある家々の表情、置いてきぼりにされた自転車の表情。贅沢な時間である。車でだとあっという間に過ぎていく景色が今日はさまざまな顔を見せてくれる。
いよいよ雨が落ちてきそうである。今年は梅雨も早いという。子どものころには、たっぷりありすぎて、うんざりするほど持て余した時間なのに、それが今、たまらなく豊かなものに思える。年を重ねることは素敵なことだと感じる。なんでもなかった当たり前のものをとても愛おしく思うことができる。

先日、一緒に食事をしたスタッフに「結婚して良いことってありますか」と尋ねられたことを思い出す。結婚でも、仕事でも、どんなことでも、たっぷりと時間を経てからでないとわからないものだらけである。しかし、伝わるように表現できる自信はなかった。

なんでもない毎日を繰り返し、感情のままにブチ切れて放り出したくなるような自分を何とかやり過ごし、繰り返し今日が来て明日が来る。けれども、ある日ある朝いつのまにか、言葉にできないなにかを自分が所有していることに気づく。それはたっぷりの時間をかけて醸成され、待つだけの価値があるものだ。時々手を伸ばしてそっと触れる。至福な気持ちを与えてくれるそれに、いつか私だけの名前をつけてみたいと思うのだ。