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半夏生

半夏生の名前を聞いたのは3年前である。隣りに座った風流な古老から聞いたのだ。花は小さく、葉が印象的だという。緑から白へ、全部の色を変えるわけではなく、半分だけを白に変える。花が終わるとまた葉は緑に色を変えるという。その花のさまを丸く切り取る窓が京都にあり、とても雅だと。そんなに惹かれる美しさとはどのようなものだろう。それ以来、半夏生を探してみるものの、いまだ見つけるに至らない。
半夏生を見つけていく中で、白く葉先を変えてすっくと立つ植物を見つけた。名前をヤマボウシという。そっと雪をかぶったような美しい植物である。このヤマボウシは自分の名をきっと知らない。知らないだろうけれども美しい。自分が愛でられ、賞賛される存在であることを、このヤマボウシは知っているだろうか。

幼い頃、大きな花図鑑を持っていて、暇さえあれば眺め、時間つぶしをしたものだ。かわいらしい響きのする名前をたくさん持っている花が、特にお気に入りだったと記憶している。私は、自分の名にコンプレックスがある。凝った名でも、難しい字を使っているわけではないのだが、誰も私の名を一度で正しく呼ぶ人はいない。名を知られないというのは、それはそれでなかなかにわくわくする。匿名的でありながら、存在だけが認められる。なんだか蠱惑の香りがするではないか。
半夏生を調べてみると、「毒が降る」というキーワードが出てきた。どうやら「夏越し大祓」に関連するものらしい。名前というのは、気にかけているだけで、しゅるしゅると触手を伸ばし、知っている言葉とつながっていく。昔から、目の前をよぎるもの、聞きかじった響きの良い言葉について、とても興味を持ってきた。川の名前、山の名前、名の由来、出会う方々の持つ名と、その名が発しているメッセージを。


3年ほど前に出会った古老は、名乗った私を「多様」と「変容」という言葉をつかって蛍袋に例えた。その時は、その意図がわからず、強情な性格をやんわりと咎められたのかと感じたものだ。
あれから私は変容しただろうか。これからも、まだまだ変わっていけるのだろうか。必要に応じて、段階に応じて。言い換えれば、変容とは環境による受動性なのかもしれない。

最近、神社でつけられた自分の名の由来を知る機会があった。考えてみれば、生まれてこの方、この名前と生きてきた。親しい人はこれからもこの名で、私を呼ぶのだろう。
時折、自分の生まれてきた意味を考える。目の前にある“今”の積み重ねが、私を構築してきた。それならば、自分らしい強さと向日性を見つけていくことが、自らを慈しみ大切にする手立てなのかも知れない。つらつらと考えていたらヤマボウシが風に揺れた。優しい風情である。