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deep woods

「質問」というワードにはまっている。
購入した書籍は5冊。「質問」という短い単語で、みな1冊の本ができるほど展開するのである。目からうろこなのである。

日本人は、質問に対して、問われたことに正確に答えなければという習性があるらしい。しかし、世界的に言うと、意図のある「問いかけ」が尊重されるらしい。ふーん、なるほど。日本的のQ&Aを振り返ってみると、まず、「自分が何を問われているか」考えて、相手の求めているAを自分の脳みそから導き出そうとする。「正解」という答えが、問われたQに対する答える「誠意」だと評価されがちである。


しかしである。ミスをしてしまった際、問われたことに誠実に応えているつもりでも、「言い訳するな」などと、さらなる叱責を浴びてしまうことも多い。質問に対して、誠実に応えているつもりでも、相手には「申し開き」に捉えられてしまうからである。私のまわりには困った人もいる。こちらが聞いていることに答えてくれないのだ。聞いているこちらが、「あれ?なにを聞いたんだっけ?」と聞き返してしまう気持ちになる。
自分はどうだ?聞かれている機会を都合よく解釈し、自分の言いたいことを展開してしまったり、後ろめたい気持ちがあって、申し開きの機会にしてしまったり。あれれ?私も「困った人」代表だった。

欧米式では、質問の評価がちょっと違ってくる。価値のあるのは、相手に内省を呼びかけ、気づきを与える質問だ。自分や環境を検討して、広げ、高めて挑戦の種を心に埋め込む質問だ。有名な「フェルマーの最終定理」のフェルマーは、17世紀のフランス人である。1994年にワイルズさんがこれを証明したものの、有名なのは質問を投げかけたフェルマーさんなのである。

質問には、2つの種類がある。
比較的応えやすいので話の最初に用いられやすいクローズドクエスチョン、多くの情報を得ることができるものの、問われた人が考えざるを得ないオープンクエスチョンである。
谷川俊太郎氏の質問が面白い。詩人である彼の質問は、感性のカタマリである。突拍子がない。黒柳徹子女史の質問もなかなか突拍子もないが、その質問によって、問われた人は本質を見せてくれる。きらーんと輝いて、その人を支える哲学をチラ見させてくれる。興味深い。尊い。
なにかを変えるためには、効果のある問いかけをしたい。もやもやする状況を自分でなんとかするためにも。


2019年も終盤である。さて、この1年間の来し方はどうだったろう。大きなシフトチェンジを行った。全員が自らの課題に真正面から向き合わざるを得なかった。変化に対応できる自分になるべく、葛藤を抱えながらもなんとか1年を乗り切ったのだ。
苦しかった。苦し紛れに弱さに向き合う意味を問うた。逃げ出したくなる気持ちを抱えて、自分たちを鼓舞した。誰も諦めなかった。なんだ?なかなかどうして、あっぱれじゃないか。

2020年、社会はますます変化していくだろう。働きかた改革による大きな法改正もある。オリンピックもある。経済効果も見込めるが、それが過ぎてしまった後の影響も大きいだろう。
“でも大丈夫”と、ポジティブな予測を立てよう。悲観は感情、楽観は意志である。さて、大掃除を済ませて、環境も気持ちもすっきりさせて、新しい年神さまを迎える準備をしようじゃないか。