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暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月

和泉式部の晩年の歌である。才色兼備、しっかり確立されたアイデンティティ、異性を思い通りに繰るsexy babelicious、平安時代の峰不二子だ。
この歌を知ったのは、環境に負けて両足がぬかるみにどっぷりとはまっていた20代の頃だ。途方に暮れている彼女のざらっとした心根に、触れられた気がして、時代を超えた共感にほんの少し足が軽くなった感じがした。
個人的には怜悧さが勝る額田王の方が好みだが、先が思いやられる状況になると、この歌を口ずさむ。

個人的な解釈ではあるが、この歌には救済を求める受け身の感情を感じない。ほの見える小さな山の端の月を心の支えにし、心を立て直している強さがある。足元から意志を湧き立たせる意志がある。“祈り”ではなく“意宣り”に近い。心を侵食する怖れが、すーっと薄くなっていくような気がするのである。

コロナが私たちを揺さぶっている。集団感染を避ける環境が必要だ。経営はひっ迫する。社内に不安と不満が蔓延する。クライアントには医療機関も多く、スタッフ用にマスクや除菌液を用意しなければならないけれど、調達はままならない。
ドラッグストアには朝から行列ができている。路上駐車が犇めく。道に溢れる車を責めがちに見ていると、「私の車ですが、なにか?あなたに迷惑かけているわけではないと思いますが、なにか?」的な視線で返り討ちにされる。
必要なものを手に入れるためですから仕方ないですよね、困りますものね、わかります。でもね、交通ルールってご存知です?交差点5メートル内に停めたら違反なんです。他のドライバーの視界を遮るんです。近隣の敷地入口付近に停めるのもね、迷惑なんです、そこに停めたら危ないんです、わかります?
認めましょう、私もいら立っています。こういう時こそ心は大きくしておくべきなのだ。


某テレビのアナウンサーが感染を公表した。微熱で出勤することは、いつもなら、真面目・勤勉・働き者として無言の加点を得られるのに、今は非難が集まる。仕事に穴をあけると周囲に迷惑をかけるといった日本の美徳や責任感は、今は非難の対象である。ほんの少しの価値判断が自分本位と受け止められ、本人のアイデンティティの致命傷になってしまう。感染者も被害者であるというのに。失念し、私たちは恐怖に平服してしまうのだ。非常事態なのである。

メンバーがきれいな色の紙ナフキンを持ってきて、せっせとマスクを作っている。ちがうメンバーは繰り返し使えるなんとかオフィスなるマスクを探してきた。関連会社の子がマスクの調達を助けてくれる。「みんな困っているようだから」と、自ら客先に交渉してくれたのである。実際に届くのはGW頃になるとのこと。え?1か月先?と無言の落胆を汲んでくれたのだろう。「それまでの間、これでしのいで」と、自分の手持ちを寄付してくれた。


なんだろう、困難と隣り合っていても、誰かが誰かを思う気持ちは明るい勇気を生む。道は暗くても、誰かを思う気持ちも誰かに思われた温かみも、山の端の月のようだ。
コロナは蔓延していても、きちんと季節は廻っている。初夏だ、銀杏並木の萌黄が眩い。終息を待っているだけでは乗り切れない。弱音を吐かず上を向こう。不安に負けそうになっても、小さな光は私たちをさやかに照らすだろう。はるかに照らせ、山の端の月。足元から湧いてくる勇気を自信に変え、目の前の道を踏みしめるだろう。曇天や雨天でも、明日現れる光を信じ、薄ぼんやりとした今を乗り越えて行くのだ。