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時空を超えて

処暑も半ば過ぎて9月である。


夏が終わり、秋が始まり、雲の表情が賑やかだ。朝には、美しいしらす雲をたなびかせていたかと思うと、夕方近くには積乱雲が乱立しだし、右手と左手では、空の色がまるで違う。夕日の影響まで受けちゃうもんだから、もう神々しいったらない。
高い雲やら低い雲やら、光は反射するやら白いやら、灰汁色から銀鼠まで、芸能人写真集顔負けの多様な表情オンパレードなのである。

久々に足を運んで美しいものを見に行った。Eテレでちらっと見かけた“古典×現代2020時空を超えたアート”である。5分程度で済む所用で上京しなくてはならなくなって、コロナ渦の中出掛けるリスクに納得できず、吝嗇の私は電車賃の価値をあげたのだ。

予約した時間に入場し、検温されて、消毒液を吹きかけられると、薄暗闇の中に放り込まれた。気分はまるで、宮沢賢治の注文の多い料理店の中年客だ。
最初の石っこだらけの空間を抜けると、花鳥風月の水墨画と、透明感のある写真の羅列である。生命への賛美とはかなさ。なかなかの映像群に時間を忘れる。
太古からの空間もある。神話の世界感である。大いなる神たちが、高天原から天沼矛を下ろされ、まだ名前のない生き物が、カオスのなかに蠢いている。なんだかスゲエ皮緞帳と、その間を飛翔する怪しげな銀の首。食うか食われるか、何億年前から繰り返した混沌が、大きな布に織り込まれている。私の細胞の中にも組み込まれている原風景、その下で、肉も骨ももう確実に土にかえっている誰彼らの、血を吸ったであろう刀剣たちが、怪しく光っている。
次の間では、アニメ化された北斎が、プロジェクションマッピングを映し出す壁を、所狭しと曲に合わせて踊っている。躍動感だけではない。満足をかきたてる高揚感がある。
次は暗闇の空間だ。闇と光、荘厳な鐘の音、太陽の動きを思わせる光の動きに合わせて、浮かび上がる日光菩薩・月光菩薩。

なんだろう。作品と空間の融合、形の残らない演出、素敵だ。会場が閉ざされてしまえば、この融合は消えてしまう。なんかすごく価値が高い、潔い、そして美しい。この芸術は刹那的だ。演劇に似ている。演技はもちろん、歌やダンス、エンターテイメントの臨場感は、その場限りだ。同じ空間を共有できる感動は、内部にものすごいエネルギーを生み出す。尊いなあ。

今まで、単品の作品に見とれて満足してしまっていた私の感性は、もう時代遅れなのかもしれない。それはそれで充分価値のあるものだけれど、私の感性は、“変わらずに残るもの”を、偏重していたのかも知れない。突き詰めていえば、今まで自分では持てない高価な資産を見に来ていたのかもしれない。固定概念とか思い込みの価値観は、すぐに古くなって、変化についていけず、歩幅が小さくなって取り残されてしまうのかもしれない。

綺麗なものは豊かだなあ。力がある。豊かさを求めるのは、生きものとしての本能だ。
毎日にせわしなく急かされる。脳みそは結果を出すよう処理を求める。処理する時間と合理性、結果とパフォーマンスと評価。小賢しく日々働いている私のささやかな日常。そんななかでも、感性は自分に足りない要素を求めている。すごく強く。

所用の時間が近づいている。なのに足は動かない。頭では分かっているのに、私のなかの私が、この美しい空間に留まることを激しく要求する。
入場するまで、好みのアートではないかも、とか、かける時間や入場料について、小賢しく思い描いていた。美しいものを見ること、圧倒されること、圧倒されながら、作品に込められた思いと哲学、情熱を感じ取ろうとする行為。すごいなあ。やられちゃうよなあ。勇気が出てくる。アートって最強に偉大だ。