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風の時代

大きな時代の切り替わりがあったそうである。
土の時代から風の時代へ。土の時代は、物質重視、縦社会重視の価値観なんだそうである。じゃあ風の時代ってなんだ?風をイメージすれば、漂流、留まらない、自由、浄化。そんな感じだろうか。
なんだか自由そうだけれど、自由が許される前提条件ってきついものがありそうでもある。ググってみれば、「土の時代」は、物や形あるもの、経済などを象徴し、「所有」することを求めた時代。産業革命から現代の大量生産・大量消費の価値観で、世界は動いてきたとある。


きたる「風の時代」は、情報や知識など形のないもの、伝達や教育などが重視される。つまり「持ちたいという価値観」から「知りたいという価値観」に、価値観が大きく変わる時代になる。
住む場所や、仕事をする場所も固定しない考えでもあるらしい。コロナ禍で生まれてきた価値観に、より過ぎてやいないか?反対側から見れば、時代の流れによって現象が起きているとも言い換えられてしまうのだろう。
持たない身としては、なんだかありがたい響きだが、共通する価値観が風のように不確かだとしたら、なんと不安な世の中になるのか。昭和のアタマで考えれば、昔見かけたレゲエのおじさんとか、ヒッピーさんのような考えが闊歩するのだろうか。

確かに1年以上続いているコロナ騒ぎで、偉い人たちの大変さが伝わってくる。「命や健康を最優先、ロックダウン致し方なし」といった価値観。「経済が立ち行かない」という価値観。
大切な人を守りたい、自分が罹患したとしたら多方面に迷惑がかかる。個人としての倫理観。そうは言っても、自営や特にサービス業、かかりつけ医などの医療機関、非正規で働く人にとって、この閉塞的な状況は死活問題だ。助成できる財源も限られている。双方をどんなに思いやっても、正解など見つからない。
1つの自分の行動さえ正しい判断がままならない。そんななかで風の時代の価値観って言われてもなあ。なんだか悶々としちゃうのである。

桜が咲いても、今年は愛でることも難しいだろう。毎年行っていた花見会場のおでん屋さんは、生活が成り立っているのだろうか。花や水鳥を見ながら、「綺麗だねえ」などと親しい人たちと過ごす時間は、今となっては限りなく贅沢な時間になってしまった。

木蓮が咲いていた。満開を過ぎて散りはじめている。4月には満開になる桜を抱える山の色づきに、気持ちが行かない。自分の目の前にある問題を、ため息をつきながら処理する毎日だ。日々通り過ぎる道沿いから、季節を感じる心持ちさえ持ち合わせない最近である。これを貧しさと言わずして、なんと表現するべきか。


でも春だ。気持ちは少し華やいでいる。散らかった部屋を眺め、模様替えもいいな、それよりまずは片づけなくちゃな。良いニュースは少ないけれども、ワクチン接種もはじまったし、とりあえずオリンピックだってできそうだ。
身近に良いことを見つけて、ほっこりする。村上春樹さんは、“ランゲルハンス島の午後”でそんな気持ちに“小確幸”と名づけていたな。小さいけれど確実な幸せ。生活の中から幸せを見つけられれば、毎日は豊かな日になるだろう。

悲観を処理して感性を育てるのは、いつだって自分自身の課題なのだ。天気が良い。朝の空気は気持ちいい。暗いニュースも多いけれど、テレビには、美しい風景や綺麗なお姉さんの笑顔も、今日の勇気をくれる。
湧き上がってくる批判めいたことは慎もう。今目の前にあるものを慈しんで、自分の時間を大切にしよう。風の時代。目を凝らせば良いことはいくらでも見つかる。最近仲良しになってしまった“負の気持ち”とは少し距離を置いて、自分自身を前向きな気持ちに導いていくことこそが大切なことかもしれない。