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You are very important to me

毎年定例でお引き受けしている講話や研修がはじまる。

産業カウンセラーや、キャリアコンサルタントとしてお引き受けするので、コミュニケーションが根底にあるテーマで展開する。具体的には、社員研修、人権、企業・個人向けのキャリアマネジメント。同じテーマでも、管理者と一般職、年代によって、主題やアプローチを変える。参加される方の聞きたいことや役割や視点は様々だと思えば、同じ内容はあり得ない。都度都度、不足しがちな脳みそを活性化して苦戦する。
「準備なんか必要ない」境地に到達できるのは、まだまだ先のようである。

研修を引き受けたきっかけは、先代が30年前から手掛けてきたシニアのライフプランがメインのテーマだった。
人生の総決算的な資産管理に結びつくものだったけれど、残念ながら私に資産管理について伝えたい思いはあまりない。なので、人生の総決算は、“自分らしさと思いを遺すこと”に置き換えてやらせていただいている。

機会があって、都度たくさんのテーマをいただいてきた。“心”や“コミュニケーション”が根底にあるテーマは無限である。なので引き受けられる分野も自然広がってくる。

最近は、交流分析の研修も請け負っている。コミュニケーションを視覚化するこの学問は、すごく明瞭で、“方法”を知りたい人々に勇気のもとを与えられるテーマでもある。
しかし、私自身は、子供の頃から“コミュニケーション”は苦手だ。
子どもの頃から、母にはいつも「人としゃべらなくて済む職業を選びなさい」と言われてきた。なのに、今している仕事は、ほとんど真逆の仕事だ。それは私が人と関わることに苦労してきたからである。必要であっても簡単なコミュニケーションが取ることさえできない気持ちがよくわかる。

そうすることがbetterだ、そうしなければならないと思う局面で向き合わなくてはならないことがわかっていても、勇気が出ない。弱っちい心もちに鞭打って行動しても、思うように伝えられなかったり、うまく言えない自分を責める。自分自身に「ダメ人間」の刻印を押して責め続け、ざわざわと収まらない胸を抱えていなくてはならない苦しさ。嫌いな自分を厭っていても、そんなだめな自分として生きていかなくてはならない絶望も痛いほどわかる。

そんなだから、いつまでたっても器用に割り切った講義ができない。「与えられたテーマだけ伝えればよい」と、合理的になれない。私の話を、何か言いたげに聴いてくださる瞳を見つけると、求めるものを共有してしまいたい衝動に駆られる。

「心」や、「コミュニケーション」が大切なことは大抵の人が知っている。しかし、ステレオタイプの認識になればなるほど、言葉の威力も認識も一般化されてしまう。
私が請け負うセミナーのテーマは一般化されてはいるけれど、聴いて下さる方の世界はそれぞれである。一般化などできるものではない。
わざわざ大切な時間や料金を負担してくださっている方が目の前にいる。それが可能になるように参加してくださる方と共感しあう着地点を探す。手探りでもあるし、話しながら途方に暮れることもある。

次回は、人権テーマの講話をお引き受けしている。コロナ禍で世の中全体が通常でない気がする。自分の価値観を盾に誰かを叩く傾向が顕著である。
だからこそ、多くの皆さんが共感できる話をしたい。一般化されない話をしたい。重いテーマだけれど、批判よりは明るく向日性のある話で伝えてみたい。なにかお持ち帰りいただいたらいいな、来ていただいた方の心に届くといいな。心の中でなにか動くといいな。

その時間に講話や講義という名前はつかない。つけるとしたら、それは共感しあう場であり、日常で動く心の探検の場であってほしいと、いつも祈りに近い気持ちになる。明るく、前向きに、参加してくださる方に新しくなにかが動き出すきっかけとなりますように。