スキップしてメイン コンテンツに移動

communicative disorder

基本、仕事中の個人携帯には出ない。忙しい朝の着信も。朝から今日1日に差し障るようなニュースを突き付けられるのは気が進まない。それから、母からの着信もできるなら朝は受けたくない。些末な用件であることが多いし、長電話になることが想定されるからだ。

母の話は冗長だ。仕事をしている時間帯なのだから、結論から伝えてほしいんだけどなあ。お母さん、今聞く話か、かけ直すか、判断材料をくださいね。込み入った話なら夕方実家まで寄れば良いだけの話だ。
しかし、こちらが手が離せない時間を見透かしているかのようなタイミングで、いつも電話は鳴るのである。そして、うっかり出てしまえば、丁寧すぎるプロローグからはじまって、予測不能な結末まで先の見えないままに聞く羽目になる。

去る日の用件は、母の日に送った鉢植えのクレームである。うっかり客先の駐車場で電話を取ってしまったものだから、約束の時間を気にしながら付き合う羽目になった。テッセンの花の色が良くないとか、なかにナメクジがいたとか、母の申し立ては12分に渡った。詰問調の言葉とは裏腹に、声音があまりにも弾んでいたものだから、口をはさむタイミングを逸した。表向きの内容は文句だが、核はお礼のようである。ずっと聴いていないと言いたいことがわからないのである。 ある日は、父の日常に対するグチのようなことを話すので、気楽に相槌を打っていたら、結論は「会社の機械に手を挟まれて、救急車で搬送された」という緊急連絡だったりする。母の電話はいつだって油断ならない。

仕事上、セミナーなどで散々コミュニケーションの大切さを説いて回るが、どうも親とのコミュニケーションはややこしい。
事業承継や世代間ギャップの課題は、実はお互いの意思疎通だ。親は「言わなくてもわかるでしょ、前提条件あるでしょ、背中見てきたのならわかるでしょ」的なことが当たり前。
けれども、子ども側からしたら、「言ってくれなきゃわからん、背中見たけどわからん、答え合わせさせてくれなきゃ不明瞭でしょ」など、親の言葉を鵜呑みにできる自信はまだ持ちあわせていない。

理解してもらおうとすれば、都合の良いように受容される。齟齬を解消しようと試みれば、とたんに捩れ出すし、辛抱強く紐解こうとすれば、こちらが提示したテーゼは、原型をとどめないくらいの別物になる。
そうなると、せっかく勇気を出して持ち出した要望を、苦笑ですごすごと引っ込めるしかなくなるのである。

なぜだろう?母が私と語るとき、いつも「全然」という枕詞がつくことを思い出す。なにが「全然」なのだ?何が「全然」の基準なのだ?「全然」の定義はなんだ?
私の信用のなさか?はたまた母の日常の充足具合の不足なのか?

基準だったら背伸びしてでも母のラインに合わせよう。寂しさがあるのなら、負荷があっても充足させなければという気持ちになる。私自身の基準が問題なら、それはちょっと歩み寄りを提案したい。なるほどこれは至難の業だ。すべての根底に、「いちいち説明しなくてもわかるでしょ?」的な前提条件が潜んでいるような気もしてくる。
双方の思い込みとバイアス、双方の望む像と望む結末、お互いですれちがう“わかってほしい大切なもの”が、複数の赤外線センサーなみに入り混じる。スムーズで建設的な意思疎通などきっと至難の業だ。

長いため息が漏れた。朝の電話、仕事中の電話、かけてくるなら短めに。私が母に理解してほしかったことは、考えてみれば些末なことだ。言えないのではない。言い方がわからないのだ。下手な言い方をすれば、言葉以上を深掘りされるかもしれない。もしかしたら、傷つけてしまいかねない言葉だ。
なら、伝えることなどやめて、このまま流してしまおう。不明瞭な言い分は飲み込んで年長者に従おう。明確な言葉を持てないのなら、後者を選んで時間を稼ぐしかないかもしれない。