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歳歳銀杏相似たり

高速を走っていると、近くの山の紅葉が目に入る。初冬の寒風に晒され、赤も深緑も光を失ったような色合いだ。夕闇になれば、黒いシルエットだけを際立たせ、もの悲しく終焉をイメージさせる。
しかし、初冬の落葉で銀杏は別格だ。今年も、朝の情報番組で、黄金色に輝く外苑あたりが放映されている。美しさの要因は、生まれたての朝の冷気のせいでもあるだろう。でも、艶やかな葉が、風に迷わされている風情ではらはらと落ちる様は、見ている側を飽きさせず、十分に楽しませてくれる。


お一日参りの本殿には両脇に大銀杏。右は黄金たわわな黄金なのに、左は殆ど落葉している。見た目はまるで同じなのに、立っている位置の関係だけでまるで違う姿だ。陽当たりと風の通りがほんの少しちがうだけでって、自然の時間差の力量の影響は大きいのだろう。姿の差はダイレクトだ。
姿が違うからと言って、どちらがどうという話でもない。紅葉のスタートが早いか遅いかだけのことだ。考えてみたら意味などなんらない。でも、考えてみないと気づけない。これを余裕というのだろうか。

ここ数日間、悩ましいことがある。問題が顕在しているのか、潜在の段階なのか、視点に差異があるのだ。老成した管理側の目、今をなんとか乗り切っていく成長過程の現場の目。言葉は角度の違う意味で認識され、伝わり切れない意図。連絡・報告・相談、これに係る指導に頭を悩ませている。あちらのリーダーと、その上司となる担当者、両者から時間をかけて話を聴けば、どちらの言い分もよくわかる気がする。
きっかけはクレームだ。内容と改善に向けての報告を受ければ、対応策と同時に、根本的な意識改革の必要性と、「職場としての職責、あるべきチームの姿」と、各人たちを長期的に守りたい強い気持ちが伝ってくる。
現場のリーダーの話を聴けば、個性が集まっているチームで、個人の都合や力量をまとめきれない葛藤と、今の現場でできることをやっていきたい気持ちが十分伝わってくる。

キャリアコンサルタントとしての役割で支援するなら、そんなに頭を抱えはしない。個々の視野を広げ、俯瞰的に視られる視点に気づいてもらえば良い。しかし、リアルタイムで迅速に結果を導けるよう支える手段は、しかし、実際に管理する立場ではなかなかに難しくなる。共感しつつもほんとうの課題に瞬時に気づいてもらって、成長への行動を自立的に促していく。本来なら、時間をかけて段階的に関わっていく案件だ。両方の心様を知らせてもらったのなら、私自身も葛藤を抱えずにいられない。
問題は視点の違いだ。立場や視点が違えば、自ずと主張も変わってくる。私や担当者の昭和的な感覚が一番厄介なのかもしれないと思えてくる。しかし、リーダーはまだ若い。若いながらも責任を全うしたいと、度量精一杯でできることを考えていきたい気持ちが見えてくる。


「心理的安全性」。どちらもチームを愛していて、「よくなってほしい、そのためにどうしようか」の気持ちが根本にある。それなのに、意見が違うだけで、どうしたって責めたり、逃げ出したくなる気持ちを双方が持つことになってしまうのだ。
でも、私はどちらも承認したい。それぞれが優しくて強い、それぞれが補い合って、できることを差し出す気持ちを育てていきたい。でも、今、そんなことを両者に言っても、今は理想的な綺麗ごとにしか聞こえやしないだろう。こうなってほしいなんて、遠い未来の提示は必要だと思うけれど、それだけでは誰にも想いなんて届きやしない。
クレームが出ないようにするためには、まちがわなければ良いだけの話だ。しかし、時間にも能力にも制限があるなら、今を乗り切るために目をつぶらなくてはならないことだってたくさんあることも良くわかる。

自分だって散々まちがえてきた。失敗したり、恥をかいたり、今まで親しく協力できてきた誰かそれやと溝ができて傷つけあったことも少なくない。その時に胸にかかえた理不尽が、どれほど自分も他人も傷つけたか。環境を恨んで、どれほどの毒に支配され、さらに傷つく毎日を過ごしたか。どちらの思いも知っている。そして、私の出すやや無茶ぶりな指示に、全身で応えようとしてくれている部下の心も有難くて、その思いを全身で受け止めたい“個”としての自分が、私を支配しようとしていることにも気づいている。 経験したからこそわかることを、ちょっとやそっとの思いで正論を持ち出したって、受け入れることなんてできないだろう。昔の自分になって考えてみる。
「上の立場の者が我慢するしかない」。
これだって、昭和時代の正論なのだろう。諍いを避けることは厭わないけれど、まちがっても頑張っている者たちが傷つけたりしたくない。
言葉が多すぎやしないか、ヘルピングってなんだっけ。わかっているとか言っておきながら、ほんとうは私が一番投げやりになっているのではないか。ちゃんと時間をかけて自分の心を整理するべきだ。


「歳歳花相似たり。白頭を悲しむ翁に代わって」。――毎年、花は同じように美しく咲くけれど、見る人の心は移りゆく。けれど、春に咲く満開の桜は、精一杯今を生きるための希望。
まだ、白頭というほど私は熟達しているわけではないけれど、今を悲しんでもいないけれど、それぞれが自律的な希望をもって幸せに過ごしてほしいという思いは、どうしたら歳歳となれるのだろう。それぞれの心の源流にそんな思いを水のように流せる川をつくれる術を知ってみたい。

陽の当たる場所、吹きすさぶ風をまともに受けてしまう場所、どこにいるかで銀杏の落葉だって変わってしまう。けれども、それぞれは絶対的に価値のあるものだ。陽が射す時間に時系的な差があっても、行き先が心の底に流れる幸せな源流に合流できるよう、祈りに近い思いで手を合わせる。
幼くて理想に逃げたい自分、理想なんかじゃない、上に立つ覚悟をしたなら「恐れないでやってみろ」とけしかける自分、できないことはないと信じたい自分、まちがっているのはこの私じゃないかと迷う自分。そんな私を笑うように、銀杏の葉が揺れ続けている。