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Marriage tie

姪が結婚し、お披露目だ。コロナ禍の影響でこじんまりとした式になるとのこと。和装などしていそいそとお祝いの席についた。

親族席で新郎側と相対する。司会者に促され、親からはじまり、叔父・伯父、叔母・伯母、いとこなどと、関係性を明らかにする。
初対面で名を明かし、「自分は何者であるか」と、個人情報のバーゲンだ。この場に集まった時点で、否応なし“親戚”になる。普段はわざわざ口にすることのないあれやこれやが、誰かれの口からこぼれ出て、なんだか時代に逆行している感じ。新郎新婦の連絡先も、いまは仰々しく大っぴらにされているけれども、年賀状の季節になれば、遠慮がちに問い合わせる気分にならざるを得ないだろう。

司会者が、「本日、新たな絆が結ばれました」と、祝福で場を締めくくる。「絆」か。一度じゃ全員覚えられないけれども、今後の慶弔の席で、顔合わせするメンバーが形成されました的なことか。交流分析には、「時間の構造化」という項目があって、分類するなら今日は、「儀式・儀礼」の時間。相互存在認知の場なんである。

「絆」かあ。しっかり昭和な私でも、この単語は照れ臭い。年始に放映される、向田邦子&久世光彦の世界観。昭和初期の古き良き時代の清らかなイメージ。“糸”の“半”分だもんなあ。半分ずつ繋いで一つみたいなこと言われちゃうと、ちょっと恥ずかしいよな。ずいぶんロマンチックだぞ。
照れくさいのは、眩しい清らかさのせいなのか、それに合うよう己を正さなければという気にさせる“絆”の重みか。追求しようと、最近とみに仲良しのグーグル君にちょいと訊いてみる。すると、絆にはちがう呼び名があることを知る。お尻に“し”とつけて、「絆し」と読むらしい。
情にほだされてってやつ? ほだされて、ゆるゆるとだらしなる感じ? グーグル君、もうちょっと教えてよ。
「“絆し”=心や行動の自由を縛るもの。自由を妨げるもの」、えー、なんだか気が進まない関わりだ。なるほど“絆”って、全部が綺麗なわけじゃない。綺麗なだけじゃいられない部分が、顔を覗かせている。これが時折透けてしまうから、すんなりそのまま受け入れられない。ちょっと抵抗してみたくなる理由になっているかも知れない。

姪は弟似で、弟と私はしっかり血が繋がっているわけだから、顔や性質が似通うのは不思議じゃない。面白いもので、「似ている」と言われると尚更姪が可愛くて、顔を見ればちょこちょことちょっかいを出してきた。
足が速くて(私は遅いけど)、いつもにこにこしていて(私はそんなことなかったけれど)、時折、大胆なことをする。姪が親の想定を超えたことをする度、「この子、私っていうよりお姉さんに似ていますよね」と、義妹に伝えられる。
そんな可愛い姪だから、新郎や、親族に対して、「あなたたち、この子を大事にしてくれるんでしょうねっ」的な目で観察してしまう自分がいる。
姪からしたら、これは「絆し」で、とんだ余計なお世話だ。 人が健康でいるためには、I(情報)、E(教育)、C(意思疎通)が不可欠で、周囲と信頼関係が築けていれば、「健康的」に毎日を送れる。なんて記事を最近見かけたものだから、姪が参入する親戚群に、余計な懸念を持ってしまう。
弟夫婦に大事に育てられ、大人になった姪が選んだ伴侶なのだから、私のこの心配感情も、姪自身を軽んじているようなものなのだろう。過剰に「可愛さ」に傾いた視点は、「絆し」そのものなのかも知れない。

さてさて、仕事をしているときはどうだろう。できるだけ部下に任せ、口出ししないようにしているつもりだが、なかなかに難しい。「洞察」とか、都合のいい言葉を持ち出して、過剰に関わっていないか? 部下たちも、胸の奥で、「もう、ほっといてくださいよ」と、ほんとはうんざりしているかも知れない。
新しくリーダーに任命した若い子に、「さぞや不安だろう」と、研修受講の提案をしてみたが、忙しさを理由に拒否された。その後、上に立つ経験のなさで躓き、彼女の落胆した表情と向き合うことになった。

そうなると、私の役目は、提案なんかをいきなりぶつけることではなく、彼女自身から「学びたい」と、言ってもらえるようなかかわりが必要だったはずだ。
心配なら安易にできる。安易にした心配に、会社の都合や上から目線の匂いがすれば、相手だって素直に受け取ることはできないと、今になれば思い至る。心配した時点で、じっくり話を聴いて、思いが育つのを待つ必要があっただろう。
けれども、心配するのは“思い”があるからだ。一生懸命を知っているからだ。辛いなら軽減してあげたい。知識を得たり、同じ思いを抱える人たちと交流が持てたら、少しでも楽になるんじゃないか、まわりが明るくなって、一生懸命が形になって可視化できるんじゃないか? こちらがそんな思いを持ったとしても、当人からしたら、きっとそれは大きなお世話だ。それこそが「絆し」になってしまうのではないだろうか。
みんなが絆を求めているとは限らない。口出しや干渉が過ぎれば、ハラスメントにもなる。
また、今は、なんでも「いいね」をつけたがったり、欲しがり過ぎたりして、「かまってちゃん」的に浮いてしまう子もいる。孤独や、自己承認が得られないことで、安易に出会い系に走ったり、自分独自の絆を求めているようにも見える。それは、目の前の“絆し”を厭っているようにも見える。それでも絆を求めて、現実ではない世界で自分の価値を構築したがっているようにも見える。目の前にいる他者や自分を、安易にモブキャラ設定し、環境を、親ガチャ、上司ガチャ、環境ガチャ、リアルガチャと諦念する。自由に動けない環境では、絆に似たものが手かせ、足かせになっているのかも知れない。
優しさや温情でさえ、疎ましく、足かせ、ひいては“迷惑”に感じられてしまうなんて、なんともやるせない話じゃないか。

人付き合いには、距離と均衡が大切だ。しかし、人との距離も、均衡も、感じ方は人それぞれほんとに多様だ。 相手と相対して、言葉のクセや表情、仕草などを観察して、その人の感じ方や行動特性を想定してみる。もちろん、人付き合いには自己コントロールが必要だ。そして、相手を尊重する思いやりを持つことも不可欠だ。信頼を築くには、相手に気づいたり、信じてみたり、絆を生む時間を待たなければならないこともある。
わかってもらいたかったり、わかってもらえなかったり、わかりたくもない現実を突きつけられたり、不安満載の時間を過ごさなくてはならない。
待ちきれない気持ちに、支配されそうにもなるだろう。ゴールが見えなくて、やりきれない気持ちにもなる。止め処なく、幾多、蜿蜒、縷々、尽未来際…、その途中、待ち疲れて自分の立ち位置が分からなって、自信を保てなくもなってしまうだろう。

絆と絆し、人間って難しいな。人間が難しいのじゃなくて、他者と関わる自分が難しいってことかも知れない。
でもさ、50歳過ぎて、なんとかまあまあ健康に過ごせてこれた。過ぎてしまえばあっという間の時間の中で、時には紋々しながら、必死にやっていくしかないのかも知れない。
時が過ぎて、何十年か後に、「私たちそこそこ幸せだったね」と、思える夫婦になってほしいな。と思ったところで、これからゆっくりと2人らしい時間を創っていく姪夫婦への、見当はずれな干渉をしているような気もしてくる。

うーん、もうよくわからない。わからないから、まあとにかくもう精一杯の祝福をしよう。
若い人たちよ。あなたたちの歩みが、確固たるものになりますように! 伯母ちゃんは力の限り応援するぜ。3杯目のシャンパンで祝杯だ。