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人生何回目?


「人生何回目だろう…」
目の前で若いコがつぶやく。輪廻転生の話ではない、らしい。


「日がな一日、きつい言葉に追い詰められる。私、人間扱いされていない。…でも仕方ない。まだ半人前。仕事が遅いし、指示がないと動けない。相手がまるっきりの悪人だったら割り切ることができる。でも、そうじゃない。仕事はできるし、悪い人じゃないし。注意されるのも、気にかけてくれているからだとわかっている。だから責め切れない。みんなの気持ちもわかる。でも私だって頑張っている。叶わないだろうけれどわかってほしい。
…そんな時、きっと相手は人生1回目なんだと思うようにしている。実は、この世界は人生経験の回数が多いほど、たくさん我慢しなきゃいけない仕組みになっていて、たくさん考えてしまう私の役回りはいつだって我慢。私、人生何回目なんだろう…、5回目くらい?(笑)。」
…逃げ出したい気持ちと、負けないでいる気持ち、情けなさを認めたくないから、現実をまっすぐ受け止めきれないでいる。彼女の内部で、負の感情が駆け巡る。苦しさに形があるなら、ばつんとふたつに割って、大きい方を引き受けてやりたい。

「私、人生5回目くらいなんで」ちがう子がカラっと言う。
5回目? なんだそれ?
聞いてみると、くだんの彼女と同じような話をする。
「たぶん、理解してもらえないのは、相手の人生が1回目だからだと思うんですよ。そうすれば諦めきれるでしょ? だから今はこっちで飲みこみます」
さっぱりしているのか、投げやりになっているのか、なんだ、なんだ? うーん、ちょっとよくわからない。
そういう考え方が流行っているの?
確かめてみれば、どうやらそういうわけでもないらしい。そういうわけじゃないらしいけれど、コミックなんかの新領域として「転生モノ」が派生してきていることを教えられる。「新作が増えてくると、ニーズに合わせてテーマも細分化され、王道な恋愛だとか、ヒーローものとかもう飽和状態なんで。「転生モノ」は新しい分野って言うんですかねえ…」。

理不尽な気持ちになった時、「転生思考」でもやもやの消化を図る。一見、柔軟な対処法にも見えてくる。感情に折り合いをつけて、負の感情から自ら距離を取り、責めの感情を排除する。コントロール機能? ある意味合理的? 納得できるような、できないような。うーん、ますますもやもやしてくるなあ。

「人生何回目」最初に聞いたときは、スピリチュアルを持ち込むの? と、正直どきっとした。最近とみに占いだとか、前世やオーラなんかのそっち系の広告を目にする。初見の占い師に心の中を言い当てられて満足し、個人情報を丸ごと無防備に差し出してしまったり、ここじゃないどこかに、仮想の世界を設定し、大事なものを委ねてしまう。知らない誰かからもらう言葉は、福音のように響くのか? 気軽に課金する感覚で求めてしまうそんなこんなは、脆弱というか、危ういというか、なんだか違う感じがしてしまう。

前世かあ。彼女らの気持ちになってみる。
思うようにならなくて辛い。わかってもらえなくて悲しい。自分を否定されて、苦笑いしながら頭を下げる。やだな、ほんとだ、救いがない。
「今の人生何回目? 次の人生少しは楽?」「あいつの人生1回目。仕方ない、見逃してやろう」
うーん…、全然すっきりしない。それどころか気が済まない、楽になんて全然ならない。音もなく、あっという間に足元から立ち上ってきた無力感に支配される。余計に哀しくなっっちゃったじゃないか。救いも、福音も、良いものなんかなにひとつ聞こえてきやしない。

ゲームならやり直しは効くけれど、悲しいかな人生は1回きりだ。なんとかするには勇気も労力も必要だし、リセットするには覚悟がいる。
50数年生きてきて、振り返ってみても大した記憶はないけれど、きっと自分の成分は、前世とか来世とかとは関係がない気がする。幼い頃の無邪気なできごと、名前がつかない雑多な感情、ささやかな晴れがましい記憶。逆に、恥ずかしかったり、痛かったりで二度と掘り起こしたくない思い出、そんなカオスが詰まっている私の内部。きっと彼や彼女もそんな組成物でできているに違いないはずだ。

Zoom越しにM先生が言う。今日はCCIの受講日だ。
「エンパワメントするには、前もってレジリエンスが必要なんです」。え? なんだって? カッコつけて、目新しいカタカナ言葉も十分知ったつもりになっている私だけれど、助言を求めてなんでにでもすがりつきたい今日の私には、まっすぐには届かない。先生、ちょっとなに言ってるかわからない。そんな思いを抱えて、慌てて辞書を引く。
「“個人が本来持っている潜在能力を引き出す”には、前もって“ストレスで脆弱になっている状態からの自然治癒力を回復させること”が必要なのです」。
なるほどそういうことですか。そうだよな。人生何回目で諦めたって、自己効力感は望めない。どうしたら回復が見込めるか、どんな方法が有効か。できないことをわかったように振舞ってはいけない。腹落ちしていないのに、わかったふりして肯いたりしちゃいけないのだ。

「人生何回目?」は刹那的な気休めだ。続けていれば世界を見る目が歪んでしまう。投げやりに支配されたら、本質的な解決は望めない。それどころか痛んだ心が治癒していかない。洗濯機の中にいるみたいに、小さな絶望の連続にぐるぐると翻弄され、スイッチが切れるのを待つだけだ。出口の見えない悪循環だ。


栃木市は文豪山本有三の出身地である。小学校にも中学校にも、観光地である謙信平にも石碑が立っていて、栃木市の子どもたちはこの言葉を刷り込まれて大きくなる。
「たったひとりしかない自分を たった一度しかない一生を ほんとうに生かさなかったら 人間うまれてきたかいが ないじゃないか」

前世なんか知らない。来世のこともわからない。
勇気を持ちなよ。自らをエンパワメントできるように。大事な心を、そこらへんに転がっている知識や情報に凌駕させるなよ。
「大丈夫、きっとうまくいく」言葉は大量消費品の価値しかないか。「大丈夫、いつだって味方でいるよ。勇気ができあがるまで一緒に待つよ」。なんだかなあ、恥ずかしくてちょっと真顔じゃ伝えられない。だから黙っている。
一緒にいよう。え、うざい? えーやだ、なにそれ。キモいとか言わないでよ。まあちょっと我慢してここに居なさいよ。
ともに過ごす時間だけでいい。思いを共有しながら、彼女らの心に小さなエールがちょっとずつでも届けばいい。
そうか、人生5回目か。頑張ってるじゃん。