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深呼吸

東京出張である。
気持ちの良い晴れ空。今日は綺麗に富士山が見えるはずだ。

ほんのちょっとのんびりしてしまったせいで、いつもより1本遅い新幹線に乗車する。混んでいる。富士山見える側に坐れない。残念だ。ひそかにため息。代替景色といってはナンだけど、窓から鮮やか色した気球が見える。遊水地でなにかイベントがあるのだろう。思いがけずの綺麗なものは、ラッキー気分のプレゼント。深呼吸するみたいに思い切り味わわせていただく。
いつもこんなだから自由席しか買えない。固定した出発時間に縛られたくない。かっこつけた言い方をしちゃったけれど、朝の自分を信じていないだけのマイルールだ。自由席でマイおにぎりを頬張る。アルミホイルに包まれて、シナシナになった海苔を愛でながら、君と新幹線との相性が最強よねっと満喫する。自分の脳内のナニが影響しているのか知らないが、新幹線に乗るときには駅弁かおにぎり。夕方の新幹線は、あちこちで「プシュッ」と鳴るビールやら缶チューハイのプルタブを引っ張る音。これが自動思考のようにセットになる。連れがいてのアルミ箔おにぎりは、これはなかなか恥ずかしい行為になりそうだが、1人だから気にしない。一事が万事、自己責任だからなんでもOKなのである。
今日はゆるゆるなスケジュール。時間があったらのんびりと銀杏並木を散策しようと、平日なのにほとんど休日気分なのである。

東海道新幹線も魅力的だ。進行方向に向かって右側に坐れば、富士山と浜名湖が堪能できるし、左側も、熱海や静岡、浜名湖を過ぎたあたりで海の景色を満喫できる。多摩川、富士川、安倍川、大井川、天竜川など、大きな川を長い橋で通過するのは素敵な気持ちになれる。新幹線を思うこと自体、気持ちの良い自動思考的バーチャル旅なのである。

駅に着けば、だいたい立ち食いそばのお世話になる。社内で食べたおにぎりのことはすっかり忘れ、ターミナル駅に着けば条件反射。関東特有黒くてしょっぱいおつゆの香りは私をパブロフの犬状態にしてしまう。朝は薄味なのに、夕方にかけてどんどん煮詰まって味も色も濃くなっていくこのつゆ模様の不完全さに、可愛さあまって愛着百倍。飛び込まずにはいられない。

小諸そばにメトロ庵、富士そばにゆでたろう。行きつけは数知れずあるのに、どの店でも未だ券売機でSuicaが使えない。スマートにコインレス購入を試みるものの、なかなか達成できない。誰か並んでいないか後方を確認しながらチャレンジを繰り返す。うまくいかず半ば自棄になってコインをも投入し、券売機のボタンを押しまくり、やっと出てきた食券を速やかに店員さんに渡す。「お客さん、ナマタマゴひとつで良いんですか?」と、必死で笑いを堪えたイケメンのお兄さんに問いかけられる。「…かき揚げそばひとつ、券売機通さなきゃだめですか」。お兄さん、私を見ないでいただきたい。今、私は己の羞恥と必死で戦っていて、他者の視線を気にしていられる余裕はないのだ。…偉く恥ずかしい。どうかこの様を誰にも見られていませんように。

1件目の用を済ませたあと、上野まで戻って2回目の「岡本太郎展」に足を延ばす。先月来たときは、友人2人と一緒で時間ばかりが気になってしまった。友人を待ちながら、どうせならたっぷり自由に楽しめる平日にもう一度来ようと、その場でチケットを購入した。
入口の案内に、「芸術とはコミュニケーションである」と太郎氏の音葉。先月、私の心を強く掴んだのはこの言葉だ。そうなのだ。作者のメッセージを、観覧者たる我々は受動的に享受するのではない。受け取ったエネルギーを感じるままにアウトプットする。誰かと一緒に来ている人は言葉にして共有し、作品を熱っぽく見ている人は自分の中に湧き上がる名前のつかない感情と自己対話し、それでも足りない人はシャッターを切り続ける。
「芸術は爆発だ!」小さい頃のテレビ画面を思い出す。この人が生きていた時代、幼かった私はこの偉大な作者を、変な顔した変な目をした変なおじさんだとばかり思っていた。
「芸術はコミュニケーション」この一言だけで、世界の見方を変えてしまう。今日1日だけでは受け止めきれないから、もう一度来てしまおうかなあ。

さてさて、今日の最終目的地、ハンコを作ってくださった先生の事務所にお邪魔する。
先生は、熱心にハンコの使い方と注意点、責任ある代表印を持つ者としての心構えを説いている。
高層階の窓からの眺めは非日常感。陽に煌めく大きな橋の上を、何機目かの飛行機が通り過ぎていく。海と空。灰青の水平線ともうすぐ夕暮れを迎える薄暗い蒼は、滲みながらも溶け合うことはない。窓越しに伝わってくるのは、色を変えていく海面の色彩の豊かさと冬の到来。穏やかな時間とともに、平和を満喫できる幸せと、感謝に似た充足感に気づかせてくれる。
平和。2月に始まった戦争はまだ終結しない。遠くの国、遠くの空の下で、脅かされている国がある。不安を抱えたまま、持ち重りした負の感情を手放せない人たちがいる。大切にしたいものを守れる自信を持てない状況で、今を生きている人たちがいる。当たり前だった生活を取り戻せる日は一日も早く訪れるべきだ。 見上げた空が美しいと感じれば感じるほど、「平和」という言葉について考えずにはいられない。

先生の口調は心地良くてまるでお経のよう。聴きなれた内容も柔らかな声も、心にさわやかに浸透していく。些末なことで波立つ心を、心地良く整えてくださる。声自体に浄化作用があるようだ。
「あなたは少し粗忽なところがあるから、気をつけて扱いなさいよ。じゃないとね、隙が生まれますよ」「この間みたいに、じゃぶじゃぶ水なんか掛けてはだめですよ、神社の銭洗い? 印は洗うもんじゃありません」「印を軽んじることは、自分自身を軽んじることにもなるんですよ。押印する時は心を整えて。慢心せず、自然と真理を重んじて。不自然はだめです」
心地よい先生のお話は、いつしかお説教になっている。先生はいつしか2月から続いている件の戦争について話しはじめる。あれ? うわの空でいるのを見透かされている。ドキッとしながらも、先生も窓の外に広がる空に、「平和」を投影し、同じようなことを考えていらしたようだ。
「まったくね、なんだってあんな戦争なんかはじめちゃったかねえ、共存じゃなくて支配のに傾いてしまうなんて、不自然の象徴だよ」。話は時を遡り、日本が体験した大きな戦争のお話に。年配の方のこの話題は心をぐっと掴む。耳も心も澄まして聞いていると、景色と呼応するさっきまでの感覚が重なっていく。
「先生、機会を見つけて今の話を、件の支配者にしてやってくださいよ」。ふざけて先生の話に口をはさむ。先生は優しく諭すような笑顔で私に応える。
「あなたはやっぱり粗忽だねえ。考えてごらんなさい。あの支配者は印鑑登録していないでしょ。だめだめ。それじゃ印に効力は生まれないもの」。形而上学的なお話をしていたと思いきや、急に話は現実的になって、私は思わず笑ってしまう。

帰り際、秘書さんに呼び止められて耳打ちされる。「今日はお天気良いでしょう?乗降ロビーで西側の窓を眺めてみて。今日なら富士山が綺麗に見えますよ」。 綺麗な富士山かあ。朝、見はぐっちゃったしな。見るべきことはきっちり見よう。見たい景色だってきっちり見て行こう。今味わわせてもらっている平和は、昔のたくさんのひとがきっちり築いてくれた結果なのだ。きっちりと感謝していかなければならない。
不意にエレベータが開く。乳母車を押す若いママが、乗り降りロビーの窓ガラスにへばりついて富士山を拝んでいる私を見て「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。「あなたは粗忽なところがあるから」と、先生の言葉がぽこんと浮かびあがってくる。
ごめんなさい的な苦笑とともに、若いママに「失礼…」と伝え、急いでエレベータに乗り込む。あーあ。深くため息。眼下を新幹線が横切っていく。今日はサプライズなみに楽しい1日だった。しばらくは覚えていたいと思った。