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枇杷の実

テーブルに枇杷の実がある。葉っぱも添えられて風雅である。

事務さんちになった実だそうだ。枇杷っていいよね、品があるよね。小学生の時、音楽の時間に歌ったよね。
“枇杷はー優しい木―の実だからー”。
みんなきょとん。
“抱っこしながら熟れてーいるー”。
きょとん顔、継続。知らないの? 世代が違うものね。しょうがないか。
このまま食べても良いんだけど、どうせならタルトにしても良いよね。幸せになれちゃう気がしてくるよね。…どうやら浮かれているのは私だけのようだ。
お中元の下見に出かけたデパートで見かけたばかり。高くてちょっと買う勇気がなかった。なのに今、目の前にどっさりと置いてある。枇杷だー。ウキウキしてしまうのは致し方ない。

記憶の景色は黄橙色を薄く伸ばしたような暖かな陽射し。楕円形の実、桃とおなじような実の産毛。子どもの頃の私が無邪気にてろんと皮を剥いている。満足しながらかぶりつく。実の真ん中に大きな種。食べるところを減らされているようで恨めしい種。それでも種もつるつるして、さわっていると気持ちが良い。

てっせんが咲いていた。隣には良い匂いがするくちなしの花。真っ白なのに咲いて次の日には茶色く変色してしまうのがいつも残念。
“くちなしの花のー花の香りがー”
父が良く歌っているのを真似して口遊む。指輪が回るってどういうことなんだろう? 痩せてやつれると指輪も合わなくなるのか、指輪なんて高そうなのに、哀しい話だね。
思うままを口にしながら枇杷を独り占めしようとする私を、祖母の目が諫めている。日当たりが良かった八畳間の縁側。

バタバタの6月である。
県北の新しい仕事先に行ってくれるスタッフが見つからない。
5月の末日、移動中で携帯が鳴って「私が行くことになりました」と入社半年の社員から報告を受けた。
「え?」「次の人が決まるまで」。そうなんだ。「社用車借ります」。「え?」「次が決まるまでなんで」。…そうなんだ。上の空で聞いた。なにがそうなのか呑み込めないまま、もやもやしながら受け入れた。

支援している客先に顔を出す。コロナ禍支援で受けたゼロゼロ融資の返済で経営が逼迫している。重ねて電気代や光熱費の高騰も追い打ちをかける。業績は回復しつつあるのに、資金繰りが苦しい。
お中元は付き合いのあるブドウ農家から調達するという。旬のブドウなら、送って喜ばれて良いですね。
「私、ブドウもそうだけれど果物全般好きではないの。好きなのは枇杷くらい」。「枇杷、私も大好きなんですよー」と、声には出さず心の中で共同表明する。美味だし、高貴だし。
がんばり時だ。経営会議の資料を作りながら、「みんなの枇杷」的なエールに悦に入る。

入社半年の社員が帰ってこない。
“次の人”が入社するのは1カ月後だと報告を受けた。それまで8時15分始業のために、片道70Kmを1時間半かけての通勤を継続するのだという。唖然とする。通勤の安全配慮義務、運行配慮、体力負担や遅刻のリスクなど考えたらこのままで良いわけがない。ホテルを手配すべきなんじゃないか。そう管理者に指示すると、本人に「ホテル出勤なんて絶対に嫌」と撥ねつけられたのだという。
いやいや、事故に遭ったらどうするの。提案じゃなくて指示だから。
1日のうち3時間、通勤時間に要するわけでしょう。体壊したらどうするの。安全優先、なんかあってからじゃ遅いでしょ。社用車だって使えなければ困るでしょう。営業部だって差し障るでしょう。
不安な思いをそのままぶつけたけれど、考えてみたら女性社員に自宅外通勤をさせることにもリスクがある。一体どちらが安全なんだ? そもそもなんでこんなことになったのか。よくよく聞いていくと、誰もがどうすべきだったかちゃんと検討しないでことが始まってしまったことが明らかになる。もっと言えば、“ちゃんと検討して出した結果なんだろう”と、勝手に思い込んでいたのではないかと、自分の間違いに気づく。動静不注視、「きっと大丈夫だろう」と安全確認を怠る「だろう運転」的な判断をした自分の迂闊さが明確になる。

1社員抜けたことで仕事も停滞する。流れが変わってしまって、報連相のまずさも明白になる。曖昧な思い込みと受け身意識が招いた良くない判断。大失態。あの日、彼女はどんな気持ちで私に電話をかけてきたのだろう。私の「そうなんだ」を、どんな思いで受け取ったのだろう。悔やんだところで後の祭り。突っ込んで確認をすることを怠った。後悔している。自分の迂闊さを突き付けられて、自責の念に引き摺られている。
今更の、なにが問題? なにが最適? 優先させるべきだったことは? リスク回避の基準ってなんだ。本人の気持ちを優先させた? そんなのは逃げ文句だ。なにかが大きく傾いでいる。優先事項の“優”ってなんだ? 優しさって一体なんだ?

みんなに分けられた枇杷の実が、ビニール袋に入れられている。「お持ち帰りください」と、親しみのある字でメモまでついている。 枇杷は優しい木の実だった。抱っこしあって熟れていくんだった。
こんな気持ちで、枇杷など持ち帰れない。

客先に行く。仕事を済ませて帰り支度の社長に声をかける。メモを外して、いただいた枇杷をそのまま渡す。「ありがとう、私、枇杷大好き」。手のひらに載せられた枇杷を見ている。後悔がある。自己満足の罪滅ぼしのつもりなのか。
今はもうない祖母の八畳間。てっせんもくちなしももう咲いていない。記憶だけに残る庭。手渡したのは、優しい枇杷なんかじゃない。薄い虹も、太陽にぬるんだ暖かさも持てない枇杷の実だ。
時間がないとか、聞いてないとか、自己都合の小賢しい言い訳だ。まどみちおの不思議な歌詞が、止まった時間の中に散らばった水滴のように浮かんだままでぶら下がる。ぶら下がったまま落ちていかない。1週間を終え、彼女は帰宅の途についただろうか。心許ない金曜日の夕暮れだ。


※「びわ」(1953年)作詞:まどみちお
※「くちなしの花」(1973年)作詞:水木かおる