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加齢とせっかち

年取ったなあ。いや、しかし、いつのまに?
憂いているわけではない。ただ、感傷的に自分の胸に問いかけてしまうことが増えた。

例えば昔の曲を耳にしたとき。最近で言えば、「ルパン三世 愛のテーマ」。ルパンが赤い上着を着て、今は亡き井上真樹夫氏が五右衛門の声優を演じていた頃のルパン三世。
放映のある月曜の19時がとても楽しみだった。満足感とちょっと名残惜しい気持ちでいるところに、大人の女性が艶っぽい声で、「いつの日ーに結ばーれるまだ見ないーあなたよー」とエンディングテーマを歌う。「私が結ばれるのはどんな人? 果たしてそんな時が来るのだろうか」なんて毎回のように思っていたことがありありと思いだされる。
そして40年たった現在。目に入るのはお疲れ気味の伴侶と、同じように煤けだした私。ほんのちょっと昔のような感覚。自分自身の中身はそんなに変わった気がしないのに、いつのまにか40数年。あれやこれやはあっという間に通り過ぎて行った。いつの間に時間が経ったのだ? なんだかなあ、しみじみしてしまう。後悔とか未練とか干渉があるわけではない。もっと時を湯がきしたような情感のない感覚で、過ぎた時間の内容を味わったり、感慨深くするわけではないのであるが。
年を取るのはあっという間。知ってはいても達観もしていない。達観と葛藤の間? いや葛藤があるわけじゃない。ただ年を取っただけだ。


実家に行けば姪の恋愛ものコミックがテーブルにある。おもしろがって茶化すと、義妹に「お義姉さんだって、さんざんこういうの読んだでしょう」と諫められる。私の愛読書は「つる姫じゃ~っ!」だったと反論すると、納得顔の義妹に爆笑される。
なんだかな。つる姫いじらしかったじゃない。器量が良くないつる姫が、型破りな騒動でさんざん周囲を振り回す。思うまま考えなしに行動できるつる姫は、私の最大の女王様だった。そして、どんな時でも味方してくれる家老がいつでも姫のそばにいて、そのことが喉から手が出ちゃうくらいうらやましかった。
ネットニュースで、作家の土田よしこさんが亡くなったことを知る。誰の上にも時は平等に降っている。感慨が深くなる。
つる姫のわがままとお行儀の悪さを深く愛していたはずの私が最近物知り顔の大人のふりをして、良い人の見本みたいな気持ちになって、「あるべき姿」を周囲に掲げ、説教大魔王のごとくなっている。中身は良い人見本ではないことをもちろん気づいているから、気短かを招く狭量さを憂いている。
自分らしくいることにたくさんの投資をしてきたはずなのに、どうもイラっとする機会が増えている。なににそんなにイラっとするのか、年のせいなのか、自省なのか、一体なんなのだ。いつも悶々と考えてしまう自分に気づいている。

携帯ショップでイラっとした。
申込した体験プログラムの問い合わせでイラっとした。
旅先の食事会場でもそうだった。
気の短さや「せっかち」が大概の理由なのである。
携帯ショップでは、「私、あなたに何を聞いたんだっけ?」と、感じ悪く応答し、体験プログラムのオペレータさんには「それ、さっき聞きました。知りたいのはその先のことなんです」と嫌味を繰り出し、食事会場では、これ見よがしに大きなため息をついて見せた。
年寄りの短気、短気は損気。そしてこれはカスタマーハラスメントもどき。やってしまえば心がささくれ立つ。良いことなんてなにもない。あーあ。自分で引き起こしておいて、自業自得の自己嫌悪にまみれている。
何故こんなにイライラするのか。文句をつけている私だってそんな威張れる立場の人間じゃないよね。まあ、威張れる人間の権利について考えだすと、もう絶望の海に潜るしかなく、もんもんとした挙句、人を責めたってなにも良いことなんてないのにさっと決着するしかないのだけれど。


携帯ショップでは、私の疑問は解決しないままに、関係するオプションを進められた。

ツアーのオペレータさんは書面に記載された通りの説明しかしてくれなかった。

食事会場の仲居さんは、「そんなのないです」と言いたくはなかったのだろう。



いっそのこと深く、深く考えてみよう。

どうも思うようにいかないと、私は短気を起こすらしい。

わからないから確認したい。答えがくる。でも私の“わからない”は解決されない。だんだんと気持ちが急いてくる。欲しいのは正答なのか? 意思疎通が図れていない? どうもうまくいかない。なんとなく置いてきぼりにされている気分になっている。聞いてもらえていない気持ちになってくるのだ。

マニュアルにない質問をされて、相手からしたら「答えなきゃ、でも間違わないようにしなきゃ」的な気持ちになってしまうのかも知れない。双方の間には宙ぶらりんの気持ちが漂い出す。お互いに生まれてくるのは心許なさだ。漠然とした変な感情が空間を満たしてしまう。

私も相手も小走りになっていないか? 変な空気が生まれてしまうのは、相手ではなく、なんというか、時代というか、それに合わせた仕組みからなんじゃないか。もっと言ってしまえば、世の中自体がせっかちになっているんじゃないだろうか。 お客から質問を受けたら、正解を一発即答しなきゃいけない仕組みになっていて、「わからない」と口にしたらいけないルールができあがちゃっているんじゃないのか?

きちんと一度で察しなくちゃいけない、相手のニーズは前もって汲み取っておかなくちゃならない。じゃないと、どんどん対応に時間がかかってしまう。そんな前提が接遇の定義に組み込まれている。一往復の応答で、果たして「ファイト一発」的なスピード解決など望めるものだろうか。なぞなぞ応答みたいな、達人が処理するゲーム速攻クリアを求められるような不安定さで。



対話はやりとりだ。なのにマニュアル的な? 決まっているような? 営業トークのような流れに押し込まれてしまうから、「NO!」の気持ちが大きくなる。こうなると対話は対決のようだ。厄介だ。自分のことはいったん棚に上げ、「厄介だ」と何度も言ってみる。



求めているのは、対決になる前の「あなたが聞きたいのはこういうことですか?」的な確認であることに気づく。しかし、なんだかそこはスルーしてしまうから、顔色伺いゲームというか、関係する言葉を用いて時間短縮を図る対決ゲームのようなものがはじまってしまう。

若い人、経験の少ない人、お客の顔色が気になってしまう人、色々な人がいる。私だって、生きてきた経験というか、年の功というかで、そんなことは十分に知っているはずなのだ。そうなのだ。落ち着いて考えれば容易に想定できることなのだ。なのに、イラっとした感情を見せてしまうのは、イラチになった私の未熟さだ。年を取ることは積み重ねた経験を持っていることと同意だとすると、思いやりのなさや自分の高慢に情けなくなっている自分を見せられている後ろめたさで、イライラを生んでしまっているように感じてくる。

ルパン3世のエンディングが聞こえてくる。

「まだ見ないあなたよ」は、子どもの私が期待した大人になった自分への投影だったのかも知れない。

大好きだったつる姫。ずうずうしくて迷惑ばかりかけていた彼女は、昔々の私自身でもある。飽きずに見守ってくれる人たちがいていたからこその今の私なんである。家老や女中のイネさんのように、気長に若い人を見守っていくのが、これからの本来の役割なんだよなあ。そうやって年を重ねていかなきゃならんのだよなあ。

あーあ。一人の部屋で深く長―いため息をつく。誰もいないから何度も何度もついてみる。年を取るというのは大きな優しさを持つことか。長い目で飽きることなく希望を伝えていく役割か。

あーあ。何十回ものため息が少しずつ元気になっていく。不満から希望へと、まだ見えない未知の扉がある方向性を示し始め出す。

あーあ。年を取るってさ、どこまで果てしない修行なんだ。あーあ。文句言ってる場合じゃないよね。まだまだ道半ば、まだまだもっと年を重ねていかなくちゃならないのだ。よく転ぶようになった初老の足元を鍛えながら、自分自身も鍛錬していけないと感じる午後である。