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便利な言葉にご用心?


「やばい」という言葉が嫌である。
しかしね、いい年をした大人が、毛嫌いするのは言語道断。
誰に頼まれたわけでもなしに、「やばい」にとことん積極的に関わって、この単語の魅力を考えてみようと思いついたのである。やばいを連発し探求してみることにした。

やばい。やばい、やばーい。よくわからないが、「やばい」と言ってりゃ、コトが足りてしまうみたいなこの感じ。なんだか手っ取り早いこの爽快感。解決なんてしちゃいないのに、とりあえず、面倒なものが横滑りして目の前から去っていく。ちょっと気持ちがいい。
息子の前で「やばい」をつかう。「いい年して下品な言葉は使わない方がいいと思うよ」。「その通り、私もそう思う」。「なら使わないでよ」。
グループワークのシェアで使ってみる。メンバーのうちの何人かが、顔を挙げてぎょっとした目を私に向けてくる。「やばい」という言葉じゃなくて、若くもないのにそれを使う私の品位が非難されている。あらやだ、これってやばくない?

三文字の簡単な単語一つ。感動したり、失敗したり、やらかしちゃったり。ちょっと空気を変えたいんだって時も万能に機能するである。なるほど、こりゃみんな便利に使いたがるわけである。
日常的に軽いコミュニケーションなら十分これでコト足りるのかも知れない。「やっだーあれやばいよね。まじまじ、ほんとヤバい。やっばーい!」これが初見の若い人が、仲良くなれるきっかけにできるのだったら、これはこれでメッケモンのような気もしないでもない。新学期とか、転職した後仲間に入るお昼休みタイムとか、どんな機会が若者にあるのかよくわかりゃしないけれど、まあ標高341Mの大平山の高さくらいの盛り上がりは産むのかも知れない。
便利だなあ、使ってると漠然とした万能感もあるしなあ、わかるわかる。便利、便利、とっても便利。…じゃないのである。なぜだか良くはわからないけれど、「やばい」という言葉、妙にむしゃくしゃしてなんだか許せない気持ちになるのである。

たった3文字で、誰かと諸々を共有したり、複雑な感情を簡単に丸めるなんておかしくないか?安易な言葉のチョイスもそうだが、感情が曖昧なまま置き去りになるのが嫌なのだ。やばさの段階だって、レベル1からレベル10くらいまであるだろうに。希望的な「やばい」から、絶望の色味を帯びた「やばい」だってあるだろうに。だいたいなんでも考えなしにみんなひっくるめて「やばい」で表現していたら、いつか感情だってヤバいものになってしまう気がする。心まで乏しくなってしまう気がする。


感情や心様が、柔らかくたくさんのものを受け止めたり、受け入れながら新たなものを生み出そうとする。感性はいつのまにかにつるつるとしたアクリル板みたいになって、引っかかりを持てず、感性に沁み込みもせず、滑り落ちていってしまうかも知れない。それがなんだかとても悲しいのだ。

最近、語彙の少ない人が多い。説明を省いたり、無難な言葉ですべてを表現してしまおうとされる人が多い。感情を当てはめる言葉を探すというより、言葉に自分の感情をあてはめる。心と便利な言葉とはたしてどっちが優勢なのか。聴いている方がわからなくなっていく。話す前から、自分の気持ちを事前に「そんなに価値のないこと」と、自らジャッジして伝える作業を避けてしまう人も多い。話す内容が重要なのではないのだ。それをどう感じて、どうしていきたいと考えるのかが大切なのに。安易に雑なカテゴライズで価値判断して、平易な言葉で目の前から遠ざけることの罪深さを考える。

なんだかなあ。ダイバーシティ・インクルージョン。時代はどんどん複雑になる。生き方だってだんだんと複雑になって、足元がしっかりしなくなっていくみたいだ。なんだか難しい世の中である。知りたいことはググってしまえばすぐに解がもらえる。充溢している情報は、留まることを否定するみたいに先へ先へと流れていく。言葉はますます短くなって、便利なチヂめ言葉が氾濫し、言葉と感情の距離は怪しくなっていく。例えば、ちょっとおかしな体調を調べ、吟味をしない目の前の情報に自分を委ねてしまうみたいに。
しかしだ。こうあるべきとか言いたいわけじゃないけれど、押し付ける気も毛頭ないんだけど、折角の人生、もう少し豊かに生きませんか? 自分をもっと大切に、しっかりと今を見つめていきませんか? もっともっと自意識過剰に、あまりにも見つめすぎちゃって自分で自分が嫌になるくらいに。自分の事を嫌いになりそうになったその先に、大事なものが見えてくるような気がしている。


「やばい」だの「えもい」だの「ぷるい」だの。便利言葉や流行り言葉は楽である。なんとなくの今の自分が伝えられるから。日々移り変わる今っぽい感覚や、「みんな一緒、共通言語」的な心持にさせてくれて、ちょっとテンション高めな気持ちを維持してくるのかも知れない。
でもでも、自分の豊かさを知ることだって大切だ。しっかりと見て、しっかり感じたことを堪能して、感じたことを味わってみる。すぐに言葉にしなくてもいい。一度持った感覚を信じる。優先してみる。もっとしっくりくる言葉を探してみる。優先すべきは、拾ってきた「みんなの」情報や言葉じゃない。しっかり見て、しっかり聞いて、しっかり手応えを確かめて、それから出てきた自分なりの心や結論が大事なのだ。


ざあざあ降りの雨だった昨日。夕方になってやっと気温が上がりつつある。いつのまにか隣の田んぼには水が入り、風に小さな早苗が揺れている。よく見りゃ茶色の水面には、綺麗に風紋が入っている。
チープな言葉に自分を預けるな。簡単な言葉は危うさを内包している。簡単な言葉は心を薄くしてしまう。こんな懸念は、おばば世代、老いゆく者のグチだろうか。どこからか、子どもたちがはしゃぎながら通りすぎる声がする。「やばいな、風邪ひきそうだ」。あらら、試しに使っているうちに、便利言葉に罹患してしまった。初夏である。楽しそうな声に引き摺られ、明日は良い天気になるような気がしている夕方である。