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Iris‘s Synchronicity


南東の空に虹である。梯子の形をしている。夕間暮れ、激しい雨が降ったあと、ほんのり淡い七色を抱えた虹だった。

スーパーの駐車場で北東の空にも虹である。さっきの虹と雲の上で繋がっているのだろう。てっぺんを見せない遥か。その2時間後、親友のお母さまの逝去の報せを受けた。「ごめんね、そんなだから明日行けないんだ」。週末に彼女の知り合いの絵を見に行く約束をしていたのだ。

一晩1人で行くかどうか考えあぐね、どっちつかずな状態でそれでも来てしまった。
こじんまりした画廊。受付で名を書いて中を見渡す。真ん中にソファセットがあって、作家と談笑している文化レベル高そうな子連れ家族。眩しさを避けるように人がいない方へと足が向く。
小さい額が並んでいる。目玉作品は眩しい方にあるのだろう。今日は人がいない絵を鑑賞したい。花弁が零れるサクラ、暖色の花、そして青草。月のような、お日様のような、空にかかる黄色い丸を携える富士の山。
北の窓際に、凛とした白い花が夏らしい姿でさっぱりと活けられている。そして寛ぎを誘うロッキングチェア。富士山の独特の色合いに見惚れながら、日本の普遍的典型の好みを持つ自分に苦笑する。買うとしたら、自宅の玄関と書斎の白い壁とどちらに映えるだろう。眺めている自分の姿を想像する。手持ちもないのに買ってしまいそうな気持が勝る。
いつのまにか作家が隣に来ている。「富士山と言えば片岡球子でしょう。印象が強すぎて、今まで気が引けてきたのだけど、急に描いてみたくなったんです」。名刺を差し出す店長にコーヒーを勧められ、折角なのでロッキングチェア拝借の許諾を得る。やっぱり富士山良いよなあ。ぎこぎこと、気づかれないくらいの音で椅子を揺らす。富士山と見つめ合う。欲しいなあ。勇気がいるなあ、どうしようかなあ。
「似たようなデザインがあちらにもあります、並べましょうね」え? あ、でも、はい。もごもごしているうちに、3枚の富士山が並んでしまう。「夕方の月ですか?」と尋ねれば、「月にも太陽にも見えるように描かれているようですよ」との答え。「そうですか、見る方が決めるのですね」。
すまして座す標準的な富士山、若干スリムですっくと高みを覗き込むような富士山、下方に繁る木々たちと一緒にいるのを楽しんでいるような平和な表情の富士の山。
「失礼ですが何か作られている方ですか」「いえいえそんなじゃありません」。「一点ものなので、早い者勝ちです」品の良いささやきはこちらの迷いを見透かしている。消費税はサービス、支払はお届けに上がった時に。どんどんと買う方へ引っぱられ、警戒心と衝動買いの欲望が鬩ぎあうものの、さっきまで感じていた気まずさはもうない。「明日まで考えます」。今日はぼんやり出掛けてきたから、この出会いに価値があるのか、一時の衝動なのか判断が覚束ない。画廊を出ると電話が鳴る。最近40年ぶりに再会し連絡先を交換した恩師からである。「帰りに寄って」と言われ、出先だからと断ろうかと思ったものの、勢いのある物言いに押され急いで向かう羽目になる。
巨峰とシャインマスカットをいただく。「初物なんだよ」「久々に会えて、思いがけなかったからさ、すごく嬉しくって電話しちゃったよ」。
恩師は20数年前に校長先生で定年を迎えたそうだ。その頃まだ、女性の校長は珍しかっただろうに。妥協のない中学校の理科教師。いつも白衣を着ていた。有無を許さぬ率直な物言いで指導する。なにしろすっごくコワかった。なのに今見る恩師は、イキイキしていて齢85すぎだなんてとても思えない。昔と変わらずまっすぐ目を見てストレートにものを言うけど、庭も家具も、調度品なんかも恩師らしさを醸し出し、小洒落ている。豊かに年を重ねていることがわかる。かっこいいなあ。新しいものにどんどん挑み、質を高めるためには東京まで自己研鑽に行くとのこと。人との付き合いもまるで伊集院静の“大人の流儀”。気持ちの良い交流は、時間をかけて育てながら、今を存分かつ率直に楽しんでいる。私との世代や価値観の違いも、積極的に楽しんでいるようだ。恩師の怖いオーラに恐れをなしていた中2の頃の自分を思い出す。親しみを感じたことは正直少なかったのだけれども、時を経て、今を共有していることが素直に嬉しい。


共通の知人(先生方や同級生だ)の近況、教師の立場で見た当時の視点。良かった時代、大変だった時代、教育の今昔。プライベートの話は、秘め事を打ち明けられているようでドキドキする。文化的な話題に移ったところで、今日行った展示会のことを伝えると、なんと恩師もその作家をよくご存じだと言う。文化活動やイベントに積極的に取り組んでいる商工会のメンバー、議員になって地域活性化に活躍している誰彼の話。恩師の交流の広さに驚愕する。あっという間に2時間半が過ぎていた。

富士山は買わなかった。
2時間半の会話で、昨日出会った富士山への親しみは遠ざかって行ってしまった。あの富士山可愛かったなあと、過去の片思いを思い出すような距離感である。なかなか進めない今の自分を、どこか違う場所に導いてくれそうな富士山だった。印象深い邂逅だった。しかし、40年ぶりの恩師との時間が、出会ったときと違う場所に私を運んでしまった。気持の変化を反芻する。断りの電話を入れるまで右に左に揺れてみたけれど、迷いの振り子は「今回は見送る」ほうに傾いた。へそくりに手をつける決断をしたのに、「ご褒美は今じゃないでしょ」の声に従った。
憧れはまだ遠く、今の私には時期尚早。でもあれを手に入れられたら、心の琴線を震わせ、豊かな気持ちにさせてくれたかも知れないなあ、そんな後悔の念を弄ぶのも今は心地いい。

偶然は冷静さの引き戻しを発動させる。

なにが私を止めたのだろう。
亡くなった親友のお母さまは、寡黙だったけれど率直で威風堂々していた。遊びに行くと、草木の手入れをしながら、近づきすぎない距離感でいつもちょうど良い優しさをくださった。大人になって親友から聞くのも記憶と違わぬ凛とした様を思い出させるエピソードで、相変わらずカッコいいなと思ったものだ。訃報を聞いて心が沈んだ。想定を超えてショックだった。
絵なんか見に行かなくてもいい。
朝の私は沈んだ気持ちを持て余し、でも必要以上にふさぎ込みたくもなくて、予定通り出掛けて行った。その選択は富士山と恩師と2つの邂逅を呼び寄せた。考えてみれば、少しの決断と行動の差が、偶然と変化を呼びこんだと言っても過言ではないように思う。

偶然かあ。「計画された偶発性(プランドハプンスタンス理論)」は、クランボルツ博士(スタンフォード大学)の理論だったよな。予期せぬできごとが契機を繋ぐ。偶発性の5つの要素は、好奇心、持続性、楽観性、柔軟性、冒険心だったか。全部が当てはまるわけではないけれど、変化の可視は特別感と確信を生む。道の途中で、思いがけずの不思議な拾い物をしたような気になる。
逃した富士山は大きいか? いやいや、安易にそんな問いを持ってくるなよ。すぐに答えを導こうとする短絡を、ふわっとした大きなものが押しとどめている。
陰影を持った雲に大きな光を渡していくような、不明瞭な形の大きな虹。虹の女神はイーリスと言ったかな。強い女神が軽やかに、夜を迎える前の空を渡っていくのが見える気がする。なんだかアンバランスな揺蕩いに、身を任せるような夕間暮れなんである。