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新年

あけましておめでとうございます。


年末、ばたばたとして大晦日に年賀状を書いている。
昨日から家人と温泉に来ているものの、けんかが長引いていてひとつも楽しくない。原因はなんだったのか、ささいなことで言い合いになり、めげている。めげているのに年賀状。気持ちが字に表れているようでやるせない。散歩に行きたくても雪。滑って転んで骨折したいつだかの正月の記憶が鮮明で、ますますやるせない。
仲直りしたくても、仲たがいの理由が覚束なくて、謝る言葉が浮かばない、あーあである。そんななか、孫が来た。子どもだけで泊まることになり、まさに救いの神である。

小学3年生女子ともなると、あまりばあばと口をきいてくれない。弟君の方と仲良くしていると、その様子を横目で観察されているようで、変に気が引ける。面倒くさいからウツウツを放り出すことに決める。射的に向かう。


輪投げにボードゲーム、3人で夢中になっていると用意してきた小銭がなくなる。なんか今日の私たち、バクチうちだよね。バクチってなあに? いいからいいから。

おねえちゃんと温泉に行く。不思議に温泉大好き女子である。3歳くらいから“温泉”と言うと、ママから離れて一人で温泉についてくる。お湯に入って女子トークをするのが彼女の楽しみである。弟君は幼稚園生だが男の子なので、女風呂には連れてこない。
露天風呂には誰もいない。すると彼女はすまし顔をやめて「今から歌います!」と、不思議なショータイムがはじまった。
まずは1番、一番下の弟の歌。2番はすぐ下の弟の歌、パパの歌、ママの歌と続いて、最後は私の歌と、全部で13番まである近況を謳った彼女のオリジナルソング(ダンス付き)の時間である。
よくまあ、観察しているな。彼女の弟への思い、日頃の生活ぶり、家でのこと、学校やバスケチームのこと。お話はしてくれないが、全部歌に入っていて愉快である。
「わたしはあママが少しダイキライ~、すぐに私を怒るからあ」ってオイオイ、あんまり笑わさないで。りんごが浮かぶ露天風呂に入ると、りんごを一か所に集めて、朝礼ごっこがはじまる。どこからか小枝を拾ってきて、自分は校長先生気取りで楽しいごっこ遊びを披露してくれた。

食事がすんで、プロジェクションマッピングを見に行く。会場までなかなか辿り着かない。道々のどんぐりや松ぼっくりを拾ったり、じゃんけんしながら“グリコ”、“パイナツプル”、“チヨコレイト”などとやっているからである。最近の子は、情報が多いからか、壁面に映し出されるプロジェクションマッピングを見ても、うかうかと感動などしてくれない。「たいしたことないねえ」だの「少しちゃっちいよ」などと評論家気取りである。
しかし、家人との午前中の険悪な雰囲気はどこかに行ってしまった。ありがたいことである。


初日の出を見る。今年初めてのお日さまを見ながら、この子たちはなにを思うのか。私はなにやら蠢きはじめている変化の兆しについて考えている。昨年の続きのお正月を迎えながら、今年は何かが大きく変化していくように感じている。
今年はなにか新しいことをはじめよう。「新しい」をはじめるためには、何かを手放していくことも必要だよな。そんなことを考えている自分に気づく。倦んでいるのかな。それが物足りなさなのか、背伸びをしてきた自分を一旦リセットしたいのか、成長してきたであろう会社自体の可能性を模索したいのか、眩しさのせいでまだ不明瞭だ。どうしたいのかを眩しさの中に見つけようとするうちに、それが自分への宣誓のように変わっていくように感じた。

朝日が眩しい。孫たちは二人でまた、ナゾの歌を歌っている。そのうちにじゃれ合いになってまた小競り合いになるんだろうな。射的で当てた昔のおもちゃを振り回しながら、まだ誰もいない屋上で、無邪気に遊ぶ孫らに目を細める。

昨年から、子どもやまだ子育て中のママたちと関わる機会が増えた。まだ小さな人たちがのびのびと育っていける何かの手伝いがしたいな。ふとそんなことが頭をよぎる。 3年前からはじまった、障がいのある人たちへの支援も、なにか閉塞しがちな自分らしさを、のびやかにできるお手伝いがしたいな。そのためには力を持たないといけないな。
そんなことを考えつつも、いつも具体化に時間かけちゃうんだよな。でもさ、時間かけることの何が悪いのか、その分精度をあげるなにかを作ってみなさいよ。
そんなことを考えながら、孫たちに声をかける。「寒いからもう戻るよ、じいじが待ってる、ごはん行こうよ」はあい。孫たちの明るい声が返ってくる。この子たちも、私の思いも、お日さまに向けて真っ直ぐ届けるような思いで、元旦の朝を引き上げる。