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20250331 サヨナラの月

卒業式は3月。入学式や入社式は4月。新しい期の切替は4月。それをサクラの花が華やかに見守る。馴染んだ考えではあるんだけど、グローバル的に見れば実は日本特有の文化。欧米だと、期の始まりは9月で夏の終わり。春じゃない。


3月はサヨナラの月。月の終わりに近い日に、突然電話をもらうこともしばしば。
「実は今月で異動なんです」「実は今月末で終わりなんです」。アラアラ大変、ご挨拶に伺いますね、と菓子折り持って足を運ぶ。なんだかね、ちょっと寂しくて、電話するのが遅くなっちゃって。なんだか名残惜しくてね。
急な別れを惜しむなら、日頃からもっとまめに会いに行っていればよかったものを。残念な思いで一杯になる。
急に行ってもナー、先方も忙しいんだろうしナー、など億劫がりにかこつけた自己都合で気を遣い、横着する。その上でのアラアラ大変なのだから、ザラッとした心残りが確かにあるのを噛み締める。


水星人は別れを悲しまない。なぜなら一緒に過ごす時間に、その日、その時を精一杯に過ごすことを尽くすから。後悔を残すことなく、水星人は悔恨なくサヨナラと笑顔で手を振るらしい(村上春樹初期の小説から~タイトル、忘れました)。
水星人に巡り合ったことはないけれど、木星人にも、もちろん火星人にも会ったことはないんだけれど、20代の頃に読んだエピソードはずっと心の芯に残っている。昔々の人びとの人づきあいって、実はこれに近いものではなかったか。時々そう思う。
車も電車もバスだって、もちろんスマホも電話も、メールだってなかったのだから、有事の時にとてもじゃないけど間に合わない。用があったってリアルタイムに繋がれない。急ぎの伝達だって誰か人の足頼みの手段だった。

手紙。紙の色を選んでみたり、字の勢いに心を込めてみたり。花のついた枝に結んでみたり、花言葉をそっと込めたり。今で言うところの絵文字、スタンプ様に文字で伝えきれない思いを託す。心のままに伝えたいと願う切実。都度都度の出会いが今生の別れになっても仕方のない昔びとの付き合い方。受け取った方だってないがしろにできるものではなかったろう。
そんな一期一会と、時に社交辞令という名のパッケージでくるまれちゃいそうな、現代の別れの惜しみ方。昔に比べたら、関わるコミュニティも、出会いの数も、今とはダンチで桁違い。ナニをナニで割り出したら数や割合の整合性が取れるかと、また、見当違いの方に思考が流れる。不明瞭なまま、付き合いに関する思いの濃さに思いを馳せている。
良い言葉ではないけれど、「旅の恥はかき捨て」的なつきあいも、昔だってもちろんあっただろうけど、狭いコミュニティなら自分の言動が生活に直結しちゃうとしたら、いいかげんな言動は許されなかっただろうと推測する。日々の平穏のために、周囲と共働する機会は多かったにちがいない。心遣いは今よりたぶん豊富だったろう。無下に言いきれはしないのだけれど。

希薄になりがちな現代の交流。限りある機会にそれでも気持ち良い関係を持てた奇跡。さよならを言う前に、その人の優しさや素敵さ、学ぶことのなんと多かっただろうの記憶。手放したくない。でもさよならを言わなくちゃ。そういう時期だって来る。必要な時、それは突然訪れる。一緒に過ごした記憶は、たとえ苦しみがあったとしても、それはとても濃密な時間で、芳醇だったことを忘れない。


のびやかな声で百恵ちゃんが歌う。「さよならのかわりに~(さよならの向こう側)」きっと私、忘れません。静かにマイクを置いて、スポットライトを降りていく。多くを語らず、歌に込めた思いだけで感謝を口にして。
今までの時間が、私の歌声になって届くと良い。誠意ある付き合いを精一杯心がけてきた。その精一杯が、でも、もし相手にとって重荷であり、苦痛だったのなら。それは申し訳なかったと心の底から悔やむことしかできない。浮かび上がってくる思いに、自己責任と無理やり蓋をする。経験が思考を作り、思考が行動になる。私の経験と思考は、いつだって少しずれている。けれども、と独り言ちる。大好きでした。伝わらなかったのは、私の身勝手な行動に自分で気づかなかった結果かもしれません。ごめんなさい。いつかかけらでも伝わる日が来るのを待ちながら、黙ってマイクを置きます。
3月はサヨナラの季節。後悔を検分するのも自分勝手な思考の結果と呑み込めば、諦めもつく。わかってほしいと思うのは、きっとわがままな思い。これに懲りて、次の出会いには、親しみある節度ある付き合いを、水星人のようにスマートにできますように。顔を見ては言えないけれど、心の中でしっかりと呟く。サヨナラのあともエールを送り続けます。お互い良い方向を進みましょうと約束に近い思いで。さようなら、そしてありがとう。