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マインドフルネスとモラトリアム

金髪の手前まで、明るい髪にしてください。

しかし思うようにいかない。
「どうなんでしょうね。お仕事に影響出ちゃうんでは?」 考えた上でお願いしてるのに、皆さま反対のご様子。
ならば、ベリーショートにしてください。だってさ、夏なんだから。
「伸ばすのにどれだけかかると思ってます? 伸ばそうと思った時、後悔するよ」
願いは届かない。料金払って切ってよと言っているのに、なんだかんだと止められる。髪色ひとつ、髪型ひとつ、思うままいかない。いい年なのに。まあ、些末な髪形ひとつ、心配してくださる人がいるのは、それはそれで有難いことなのだろうけれど。

朝が来て会社に行き、日が暮れて退社する。
ルノアールみたいな空だ。荒れるのか? 晴れるのか? 決めかねている横ばいになった積乱雲。
外に行かずに、事務仕事が続く毎日である。Pマークの更新申請に、行政に出す書類仕事。必要な情報をあちこちから引っ張り出している過程で、ファイリング基準や、ワークフローの基準が徹底していないことに気づいた。
やっつけ仕事+時の積み重ね=非効率。書類やルールの整理整頓、明確化が今優先すべきことなのね。よって社内でちまちま処理を続けている毎日である。


雷が鳴りだした。あっという間に豪雨である。職業訓練の先生は、帰宅を足止めされている。豪雨の中外に出るのは気が引ける。先生方も差し迫って帰宅を急ぐご用事もない様子。足止めされている時間が空白になる。
打ち付ける雨の音を聞きながら仕事をしていると、ぷつっという音とともに電気が落ちた。停電だ。栃木県は雷王国。慣れっこと言えばその通りだけれど、先生方と一緒に空白の時間に放り込まれる。しばらくこんな時間が続けばいいな。まだなにもできあがっていない時間。途中、保留が許されているゆるい時間。こんな猶予期間をエリクソン博士は「モラトリアム」といった。反芻して独り言ちる。
モラトリアムとは、「社会的責任を逃れてゆっくり試行錯誤できる猶予期間」という意味で使われる。主に10歳前後~30歳前後の青年期における概念で用いられる。
棚上げして、結果を出さず、あれかこれかを決めず、途中のままで揺蕩っていたい。そういう状況は心を軽くする。締め切りが嫌い。先延ばしが好き。結果が出ないうちは終わらないわけで、評価されることもない。先延ばしが好きなんて、この場で口にするわけにはいかないけれど。


仕事が終わりそうになると、新たな課題が表れてなかなかゴールできない。この状況が、嘆かわしいのか、救いなのか。しばらく揺蕩う時間を味わっている。
先月の研究部会はマインドフルネスだったな。
以前、参加した時は、手のひらに載せられたレーズンをただひたすらに眺めた。せっかちな私には、「これは合わんな」と、しみじみ思った。
誘いがあって再度参加すると、新たな発見があった。複数回受講っていいよな。気づけなかった価値を見つけられる。
ただただ、呼吸の回数を数え、解決に急ぐ思考を遮って、無意識に潜む泥を見つめる。泥の中から何かが立ち上がってくるのをただ眺める。小手先の解決を目指さずに、根本的な問題に気がつく練習でもある。「立脚点を待つ」、口に出せばちょっとカッコ良くて、いい気分に浸ってしまうわけだけど、呼吸を数えているうちに、呼吸が浅いのに気がつく。意識しなくちゃならない丹田が、どこなんだかわからない。うまくいかないな。大体、禅とマインドフルネス、どこがちがうんだ? お坊さんが棒持ってやるのが禅で、外国の人に人気なのがマインドフルネス? いやいや、稚拙な回答です。まだまだダメ子ですな。…今日は何食べようかな。買い物するの面倒だな。冷蔵庫に何があったっけ。ちがう、ちがう呼吸数を数えるんだった。うーん、結局食欲が優先ね。あーそうだ、あれ早くやらないと。提出日はいつだっけ。…うーん、思考が止まらん。いやいや、ちがう。思考してもいいんだった。思考しちゃう自分をただただ眺めるのがマインドフルネスだって言われたんだ。
「問題は無意識の反射による行動で起きてしまうものです、ならば“今ここ”での自分の状態を、メタ認知できるようにしていきましょう」。

腰を上げるのに時間がかかるタチ。なのにせっかち。すぐに着地点を考えて、目先の解決策に飛びつこうとする。根本的な問題がなかなか解決の芽を出さないのは、上っ面で処理する癖がついているからだ。そんなことを最近よく考える。
待つことが怖い。けれども今は、内面を見つめながら整理する時期。今考えなければならない大事なことがあるはずだ。
いやしかし、これはモラトリアムを堪能しすぎか。言い訳つけて動こうとしない自分をこじつけたいだけなのかもしれない。そう自虐の理屈に走ろうとする非力の私を、頭をもたげつつある立脚点が押しとどめてくれる。


職業訓練を受けている生徒さんは、今はモラトリアム期間である。資格取得までの学習、再就職を決定するまでの準備期間。行き先がまだ不透明で、不安を感じさせる表情をしている人もいるけれど、学びの時間というのはそんなに気分を高揚させるのか。羨ましいほどの表情を垣間見せる。
何者でもない期間、何者にもなれる可能性を吟味できる時間。

花を買う。バラを買ったら3日でしぼんでしまった。買った時にはすべすべとスのない花弁だった。植物になりたいと思う時がある。すっと立って。風が吹けば素直にそよいで。たとえ周囲が燃え出してしまっても、あたふたせずに動じない。
強さって何だろう。他者と戦わなくちゃならん時もあるけど(気が進まないけど)、大抵は自分と戦って得るものだ。勝てないなら、やめる勇気を持て、逃げることに専念しろと孫氏は言った。戦わない決断だって強さだ。この年になってやっと気づいた。
稲妻が見える。垂直に光って、遅れて轟が耳をつく。先生方は駐車場までたどり着いたろうか、玄関でまだ雨宿りしているか。
雷雨の中、飛び出さなくてはならない時もある。足止めに焦れていた方が良い時もある。今の行動を決めるのは、いつだって自分自身の判断だ。けれども今はモラトリアム。完成までの時間を慈しむふりをして、結果を棚上げして、途中の時間を揺蕩っている。表立っては言えないが、大変心地の良い時間でもある。


先日の美容室の結末。
あとから店長が出てきて、「ショートにしたいなら、外側の長さを変えずに、中をみんな刈り上げちゃおうよ、きっと涼しいよ」
頭の中に雷鳴が走る。断固拒否である。あまりに突飛な妥協案じゃないか。
決定を猶予された私の髪型は、真っ黒から2段階明るめ、長さは10センチカットで折り合いがついた。イメージチェンジのモラトリアム期間は、“今ここ”でばっさりと終わりを告げたことを付記しておこう。