
天下無敵の佐野洋子先生の単行本のタイトルである。思わず、「残念なこと」と頷いてしまう人もいるのではないか? 先生の言葉には魔法のような説得力がある。
佐野洋子と言えば、「100万回生きたねこ」。佐野洋子と言えば、偉大な詩人、谷川俊太郎氏の奥さん。大らかでありながら、時に見る者をきゅっと緊張させちゃう過敏な神経質さも垣間見せるような絵を描く。なんてったって名前がかっこいい。佐野洋子。あの谷川俊太郎のハートをずきゅんと射止めちゃった人とくれば、自動思考で都会風な線の細い女性を思い描く。骨太な骨格をウェーブのかかった長い髪で和らげて、少し「気取りん」的な。そんな魅力を持った人…いやいや、それは山本容子さんだった。
そんなサノヨーコ像を思い浮かべながら、おずおずとページを進めれば、「生命力」そのものの言葉の塊。生命力が昇華しちゃって、すでにもう神様と仏様じみた領域。大爆笑つづきのハッピーな時間を提供される。
なんだなんだ? 佐野洋子ってスカした絵描きじゃなかったの? 発言はコンプライアンスまるで無視の言いたい放題。かの上野千鶴子さんの上を行って、ズバンと直截的な物言いが魅力的。まっすぐ思ったことを飾ることなく暴露する。なのに、鮮明に保っている幼い頃の記憶、心持ちの表現は、微細、しかも繊細、表現力の神様だ。しかしまあ、こんな直截に言い放っちゃってさ、倫理規定にひっかからなかったわけ?
ウィキ先生に尋ねれば、それはそれはの輝かしい経歴。ムサビ(武蔵野美術大学)卒業だから、さぞかしお嬢様かと思いきや、そうではないらしい。画像検索してびっくりした。長髪じゃない(けどショートカットの髪はツヤツヤだ)。随分丸っこくて土臭い。
谷川俊太郎とのちょいエロな共作詩集「女に」を想像していたけど、6年で早々とサヨナラしてしまっている。
お住まいは軽井沢なのね、どのあたり? と思い馳せれば、10年以上前に亡くなっている。残念である。非常に残念だ。
臆せず言いたいことを言って、飾らない。すごいのは、事象を「感じたことそのもの」で語る姿勢と、心を微細にさらけだし、それでも大いなるものに畏敬の念をはらって生きる謙虚さをサラッと挟み込んだ表現力。字でも絵でも、その才覚はとんでもない。自由ってこういうことなのね。才能がある人に許される器のでかさ。意味の枠が浸水するみたいに広がって、とても上滑りな評価なんてのを寄せ付けない。
「『女性活躍』について一緒になにかをやってみない?」
と、大先輩から声がかかる。佐野洋子も、上野千鶴子も、活躍する女性の代名詞のようではあるが、なんか女性のくくりで考えたくない。性を凌駕して、すごい人はすごいのだ。女性としてではなくて人間としての敬愛だ。性差で区別するものじゃあない。
大体、「女性活躍」の言葉が嫌いである。どうも、ケンリの主張が、躍起というか必死みたいな感じがして嫌なんである。不利益は十分承知、共感もするけれど、進んでそのステージには上がりたくない。
声高に言えない背景は、処理しきれない異物感がまだあるからである。そんなの個人というか、個別性の問題じゃん、男性だって言わないだけで、イロイロあるとは思わないの? と軽やかに言いたいけれど、言い切れない私がいる。一旦口にしたら、「敗北感」に安易に傾きそうな脆弱なココロモチを恐れている。それはモノスゴイ根深い感情で、意図せず押してしまいそうな時限爆弾スイッチみたいなものかも知れないな。
最初に「ガラスの天井」と、女性のキャリアについて表現したのは、アメリカのマリリン・ローデンである。実績があっても女性を昇進させない組織の障壁。昇進の階段をのぼっても一定以上から先に行けない。それは、男性中心社会で、明確な根拠を示されず、「見えない障壁に阻まれている」感じから表現された言葉でもある。
いつまでも上がらない給与は性差のせい。一旦考え出すと、怒りの地雷が暴発する。抑えこもうと折り合いつけるのに難儀した。とってもずいぶん、やたらと卑屈極まりない感情だった。20年前、トップが口にした言葉を決して忘れない。
「男の給与は生活給」。悪びれもせず言うのである。なんだよそれ、なんだと、おい。給与って、成果の評価でしょうが。女だって生活しているんだわさ。稼いでくる亭主ばかりじゃないぞ。全世帯、安定収入があって平和な家庭ばっかりじゃないんだぞ。それぞれ事情があるんだぞ。渡される生活費が潤沢だと思っているのか? 自分の収入が安定すれば、卒婚だってできちゃうんだぞ、私はしないけど。
なんて、うっかり感情のままに主張すれば、「オマエんちそうなのか?」など、好奇の目で勘繰られる羽目になる。アブナイアブナイ、口が滑るトコだった。下手な主張をしてエライ損など食うもんか。
女だからと、男ならばと、面倒くさい。女も男もおんなじだ。がんばることに性差はない。女にも男にも、どっちにだって不利益はある。差別でじゃなく区別で考えるのが成熟した考え方なのだ。
ここ数年で、社会の価値観は、時速100キロくらい動く歩道なみに進化している。育児だって家事だって、女の役目とか男の役目とかボーダーラインは曖昧になっている。
平塚らいてう先生は、「元始、女性は太陽であった」と旗を振って、社会での女性の権利と地位を求めた。
この発想もどうも苦手である。自分が太陽である気がしない。誰もが認める立派な女性しか、そんなことは言えない気がする。大体、自分が太陽なんだぞと言い切れる女性が、世の中どれほどいると思いますか、平塚先生。太陽も月も1個しかない。それよか、男も女もそうじゃないのもみんなまとめて、たくさんの星に例えた方がしっくりきませんか?
佐野洋子、上野千鶴子。お日さまの匂いのする女性たち。彼女らは女性だからお日さまの匂いがするのではない。健全だから眩しいのである。そばに行けば、発している体温で、男女問わず我らみんなあたためて、しっかり良い気持ちにさせてしまうから眩しいんである。

サノヨーコは素敵だ。女も男も超越して、ただ人間として「生」を輝かしている。ただ、懸命に必死で生きているその様が、とびっきりの魅力なんである。明るい気持ちにさせてくれる。
「神も仏もありません」。なんやかんやを必死で乗り越える途中、絶望に負けそうになる。そんな時、大きなものにすがりたくなる。自分の弱さを蹴り飛ばすために、サノヨーコは、このセリフで自分にカツを入れたんじゃないだろうか。
「いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは生きてゆくより外はない。生きるって何だ」その後、サノヨーコは日々繰り返される日常を述べている。今、今、を積み重ねていくのが『生』である。女も、男も、母も父も、知ってる人も知らない人も、みんなそうやって生きていく。
まあね、世界はまんざらじゃない。
焦る気持ちを放り出して、お日さまみたいな気持ちでいよう。どんな人にだって朝は来るんだし、誰もが知っている大物だって、最初は何物でもないところから歩いてきたんだ。
「女性活躍」かあ。「みんな活躍」なら乗れるんだけどな。だけどみんながいつも活躍してたら、それはそれで気づまりになってしまう気もする。「時々休憩」「来し方適当」で良いんじゃないかな。
「それじゃ仕事にならないでしょ、一緒に何かやろうって言ってるだけじゃないの」。先輩に怒られる。そうですね、ごもっともな意見です。
屁理屈こねてごめんなさい。