
ここは、クローズ前の動物病院の待合である。愛猫が膀胱炎になってしまって、2日目の通院である。もうすぐ受付は終了だ。
どこかで聞いたような、そうでもないような声。顔を上げれば大きな男性である。うん。確かに知ってる。ロボットみたいな硬質なイメージ。しかし、縦にも横にも大層大きく、ビジュアルはロボットではない。そうなると、機械的な印象は応対の記憶か。愛想のなさとか頑なさとに分類された記憶なんだろう。そこまで考えたらすぐ思い出した。家人の担当医である。生活習慣病関連の。
驚愕である。「ダイジョブでちゅよ」? 「痛かったでちゅね」? ん? いつも家人に数値の管理があーだとか、こんなんじゃ全然だめだとか、一本調子の通達を投げつけるあの先生と同一人物なのか? あらやだわ。見ちゃいけなかったかしら。
凝視である。禁じれば余計に、チラ見がやめられない。いけない! 好奇を抑止できない目線がロックオンされた。じろりと睨まれる。このままでは失礼すぎる。観念して丁重に挨拶する。「こんばんは、いつも家人がお世話になって・・・」。とたんに相対する視線は厳しくなる。言葉を丁寧に取り繕っても、「見てましたよ、ずっと見ててました。赤ちゃん言葉もしっかり聞きました、ごめんなさい、楽しかったです」って、しっかり顔に出てしまっている。赤ちゃん言葉の先生は、そそくさと大きな観葉植物の影に移動してしまった。
朝夕の寒暖差が激しく、2月なのに異例のあたたかさ。そしてまるで雨が落ちてこない。そうかと思えば不意の雪。大気に翻弄されているのは、お年頃の私たちだけではあるまい。
冬だか春だかも不明瞭。2月のうちに桜なんかも咲き出してくるんじゃないかと思えてくる。固定観念が覆る2026年の初春である。ぼーっとする。ぼーっとしている自分を漠とした私が眺めている。行きつく先のない小舟に乗っている気がする、視界は茫洋。四方八方霞だらけで、不安も恐怖も浮かんでこない。 昔の暦だと2月4日がお正月。梅はいつ咲くんだっけ。まあいいや、咲いてしまえば嫌でも目に入る。考えなくたって現れ出てきた現象をヒョイとつかめばいいだけだ。
退化しているようにも思える今日この頃。そう思ってみるだけで、ほんとは退化だなんて、つゆほど思っていない自分がいる。「退化だと思っている自分を眺めている私」を味わっているだけで、反省なければ感慨もない。したがってここから出ようとする意欲がさらさらないのが明白になってしまう。
そうなのだ。最近慌てたところで、良い方向に転換できないことに気づいたのだ。開き直りみたいな気もするのだけど。でも、この慌てない状況が、良くない状況なのか、悪くない状況なのかよくわからないのだ。棚上げしながら、今日も花屋で花を選ぶ。チューリップにスイートピー、可愛い花はたくさんあるのに、お気に入りのいつもの店員さんがいない。残念だなあ、出直すかと思ったところで、お店の人と目が合った。気弱なたちなので、さして欲しくもないのに花を選ぶ。
ガーベラとカーネーションを買った。チューリップもスイートピーも買わなかった。人を選んで、気持ちがカーブしてしまった。子どもみたい。そうね、否めない。花を買うと気持ちが浮き立つ。だからかな、浮き立つ気持ちは、好ましい人から受け取りたい。誰に問いかけて同意を得たいのか、もやもやしながらガーベラの薄い黄色を検分している。

もうすぐミモザ。可憐な花弁を持つくせに、意外と強いラナンキュラス。小さな花弁の花たちに話しかける私を、誰かが見たらさぞ気味が悪いだろうな。けれどどうか許してくださいませ。春だか冬だかわからないあたたかな2月に、モラトリアムしている心地良さ、ゆるゆるしているだらしなさ。雨が降ったら傘を開き、灰色に近い赤と白色を混ぜた花弁を、梅とも桃とも決めずに留保する中途半端。やがて季節は移り替わる。3月までは、全部決めずに保留箱に放り込んでおきましょうや。
私は知っている。決めなくていい時が春にはある。冬眠中の熊みたいに、じっと待っていると、方位磁石が北を示すように、夜明け前には静かな波に揺れた小舟が、そっと帆先を正しい方に向けることを。自分から動かない。ぼんやりと待つ。役割も求められてるキャラ設定も忘れ、ただただ空を眺めて、呆けて過ごす。ただ、それだけなのに、不思議と内面が整う気配がする。サウナと水風呂を往復した後のように、弛緩しながら心が縦列整列を始めるのが見えてくる気がしている。
季節が変わる。見えないけれど枯れ枝は、見えない場所で内面に碧をミチミチさせ、つぼみをつける準備をしている。外からは整わない。備わるのは、井戸の底みたいに外からは見えない場所からなんである。
そう言ってても、なかなかな焦燥感がともにある。呆ける理由が欲しいだけなんじゃない? 体力が落ちて、すでにご隠居レベルに到達しちゃったんじゃない? なにもしないで屁理屈つけて。そういうの「怠け者」って言うんだぞ。
しかし、シャカリキに動くのは、勢いを味方にした若さの頑張りだ。様子を見て、準備を整え、シミュレーションして手応えを見て練り直す。自信がないとこの時間を待てない。途中なのに走り出したくなる。焦燥感に負けて、方向違いの低い山に登ることに、妙な価値をつけたくなったりもする。
種はいきなり実にならない。わかっている。わかってはいるのだけど、少しずつ過ごす日々の意味も、役割も放り出して、充電も準備も不十分なまま駆け出すことに意味を持ちたくなる日だってある。
愛猫の診察の番がくる。点滴をするけれど、昨日よりは格段に元気である。そうだよね、いつだって、なんだって、治癒に寛解、解消に解決、時間とセットにならなきゃ、結果は見えない。
酢飯にゴマを混ぜて、お稲荷さんを煮る準備をする。お揚げを湯通しして、箸でしごいても今日のお揚げさんは開いてくれない。お揚げがカパッと開かなければ、中に酢飯は入らない。混ぜた酢飯を冷凍庫に入れて、急遽、煮物に献立変更である。
なんだか思うようにいかないねえ。愛猫に話しかける。世の中うまくいかないねえ。〇〇ちゃん、今日の点滴は痛かった? 昨日よりは元気になった? 我慢できて偉かったでちゅねえ。ちゅーる食べまちゅか? どっちの味のちゅーるにしまちゅか? あらやだ。思いもしない赤ちゃん言葉が口から出た。そうよね、〇〇先生の赤ちゃん言葉、強烈だったしね。すぐに影響を受けるよね。楽しいこと、すぐ真似したがるよね。
ちぇっ、勇気出してお揚げさん奮発したのに。いつものペラペラお揚げじゃなく、肉厚、ふっくら、ジュッとシミシミのお稲荷さんが食べたかったのに。 どなたか私に、ちょっといい油揚げの開き方(キッチンぺパーにくるんで押す、菜箸で扱く以外)をご教示してください。