スキップしてメイン コンテンツに移動

they stand by one's life


“ことしの正月、よそから着物を一反もらった。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。”

つらつらと見ていたネット記事で、「ほがらか人生相談」なるものが目に留まる。
相談者は、なにかに頑張れる気がしないので30歳で死のうと思っている27歳の青年。
これといった夢もなく気力もない。今まで頑張れたこともないし、これからも頑張れる気がしない。愛読している連載の最終回さえ読めればそれでいい。

相談を受けているのは演出家のセンセイである。冒頭の太宰治の言葉を引用して応えている。
相談者を否定せず、“人生をちゃんと考えたからメールをくれたんだね”と、発言の根っこにあるものを代弁する。「頑張ること」、「自信を持つこと」がとても大切だと捉えていた心を明確化した上で、自分の一番知りたいことを相談者に問いかける。素敵な回答だ。


私にも、この相談者のように静かな絶望を抱えていた覚えがある。
3年間のコラムを出版することになった。編集者の方に、私のpersonalityがわかるようなものをと望まれ、うんうん唸りながら捻りだした。唸っているうちに入社したてのエピソードが、ガラポンみたいに転がってきて、一気に書いた。
バカみたいだけど、書いているうちに目の前がかすんでくる。不覚にも感極まってしまう。
その頃の私は、日々足掻いていた。見えない何かに抗い悶々として、自分自身を持て余していた。周囲からしたら、扱いが面倒くさい、実に厄介な人間だった。

「大人でいることがこんなに大変なら、この先の人生に思いを馳せるだけで疲れてしまう。望みたいものなんてない。手放す方が楽そうだ。」 昔の私だったら、盛大に挙手してこの意見に賛成するだろう。
感極まったのは、昔の自分をカウンセリングしている気持ちになったからなのだろう。自己カウンセリングなんて、いかにもうさん臭くて気持ち悪いと、軽蔑しているような自分もいる。昔の自分に同情しているような、自己陶酔しているような、自分自身が気持ち悪い存在のように思えて嫌悪する。
けれども、小さな度量ながらも頑張っていた根っこに、共感したい気持ちが勝った。もし、タイムマシンがあったなら、自分を承認し、労って応援したい。「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても。生きているうちに良いことがたくさんあることに気づいていくよ」。

今でも、厄介な人間から真人間になるまで距離があることに苦笑してしまう。
けれども、昔の自分と今の自分とは、ずいぶんちがっている。なにが変わったのか、昔と今を並べて比較して検討してみる。
まず、大々的に肉付きが違っている。昔は持っていたウエストのくびれ、踵をつけずに階段を上って息切れひとつしなかったなかなかの脚力。今では、ウエストのくびれどころか、横から見た厚みだってかなりのものだ。
昔なら楽勝で通り抜けられたスペースに、今ははまってしまったりすることもある。階段だって、手すりに助けてもらうことが増えた。ここ最近、階段ととみに仲良しである息切れさんとも、しばらくお付き合いしてなじみになっている。
良くなった点は、かなり楽天的になった点と、家人と喧嘩したり、親しい人と諍いをしてもそんなに参らなくなった点、周囲に甘えたり、簡単に誰かを信じたい気持ちを持てたことが増えた点か。

人生は楽しいだなんて、この年になったって、とてもとても言えるものじゃない。
でも、傍観者をやめて、当事者になってアップアップしているだけで、苦しくてもそのあとに充実感が待っていることを知った。自分にとって、若さとは、目の前をふさぐような高さの山を見上げて絶望に近い思いを抱えて振り返り、大変そうな他人様の当事者平野の景色を眺めて、醒めたというか虚無的な心に支配されることなんじゃないかと、今になって思ったりする。

若い自分に言いたいことがある。今、この身を浸している当事者の海は結構楽しいよ。じゃぶんと飛び込んで、びしょ濡れになって、時には底に沈んで泥だらけになって、息苦しい時もあるけれど、過ぎてしまえば苦しさなんてすぐに忘れられる。
「こんなもんで上等か」と、当事者の海から上がって、一息ついたときはけっこうさっぱりしていたりする。

演出家の答えは、相談者に安堵を与えたんじゃないかなと思う。SDGsとか、世の中では騒がれている。ならば、私のSDGsは、若いひとに少しでも安堵の気持ちを持ってもらって、かけらの寄せ集めみたいなひと掴みの未来への安心感を持ってもらってもらうことだ。そんなかけらの積み重ねこそが、勇気の元になるんじゃないかなと、なんだか思っている。

ストレスフルな環境も、退屈すぎる環境も、既視感を覚えるような失望も、誰もが抱えて今をゆっくり歩いている。でもずっと続くわけじゃない。
時々コインを拾ったり、冬の空にきれいな雲のグラデーションを見つけたり、暗い夕方に今日が新月だったことを気づかされたり、ヨークベニマルで落とした小銭入れを拾ってもらったり、良いことだって結構あったりする。

2022年である。初夢も覚えていないけれど、でも気持ちのいい夢だった気がする。今年の私はなにに躓くだろう。けれど、時間をかけてもきちんと起き上がれる自信はある。さて、佳い年にしなくちゃな。毎年上等の夏物を楽しみに、生きていけるよう頑張っていきたいと思う。