
美容室にいる。髪を切るのは3ヶ月に1度。私の髪は伸びるのが早い。身長が低いのに、髪が重いと鈍重に見える。若い頃は、見た目に頓着などしなかったけれど、今は容貌が少し気になる。加齢のなせる業だ。
「今日は何センチ切る?」聞かれるけれど、リクエストは叶えられた試しがない。「15センチ切って。思いっきり短く」「やめときな。手入れが大変だから。長さ変えずに軽くしておくよ」。いつもこのやりとりが儀式。説き伏せられてお任せになる。目の前に並ぶ週刊誌の目次をチェックして、興味のある頁をつまんで、持ってきた本に没頭する…んだけど、今日はしきりと後ろから独り言が聞こえてくる。
「おっかしいな」「うまくいかんな」「あれ、どうすっかな」ぶつぶつぶつ、ぶつぶつぶつ。私の髪を切りながら言っているから、おっかしいのは十中八九私の髪だ。聞きたくないから鏡越しに目で答えを促す。「なんか今日、調子悪いね、うまくいかないね」…うまくいかないのは困ったな。あらためて床を見れば、既にずいぶんな量の髪。「うふふ、どゆこと?」「揃わなくてさ、やめらんない」いや、やめてもらっていいですか? そういう日があっちゃだめでしょ。一回落ち着いて立ち止まりましょう。と言えない気質である。へらへら笑って、「そういう日もありますねー」とか言っている。任せている身とすれば、代わってどうにかできるわけもなく、諦めの境地である。

「やめられない」か。小さい頃、爪を噛むのをやめられなかった。弁えの良いタチで、大人の前ではやらなかったから、見つかっていないと思っていた。注意されないからますますやめない。やめないどころかエスカレートして、隠れて足の親指の爪まで噛んでいた。その怪しい恰好が“はじめ人間ギャートルズ”みたくてやめられなかった。
小5になった時、担任の先生が気づかれて、親に言いつけられた。「お宅のお子さん、爪を噛む癖があります」親もびっくりしたようだったが、私自身、心の底からびっくりした。どこで見つかったのか想像もつかなかった。大人になって考えれば、爪噛み現行犯現場を押さえたのではなく、ふだんの爪の形の不自然さから判断したのだと思う。しかしまあ、よくもまあ、こんな私なんぞの爪先まで注視していたもんだと感心する。口うるさく注意されれば、癖は次第に解消される。K先生、今もお元気かしら。
「やめられない」にも種類がある。一番身近の大分類は、“わかっちゃいるけどやめられない”カテゴリー。“勢いづいて止められない”ものや、“馴染みすぎちゃって今更どうにもやめられない、私って駄目ねえ”的なもの。またまた、“いつでもやめる自信はあるの、だから今すぐやめなくてもいいわけよ”的なこじれたもの。自慢じゃないが、どの「やめられない」とも私はとても仲が良い。ただ、一番困るのは、無自覚の「やめられない」。まわりが「やめてほしい」と思っているのに、当事者は「やめる必要ない」意識。一番悪質なのは、当の本人が無自覚なもの。これはほんとに始末に悪い。
ストーカーなぞこのクチだろう。大半の人はやっていることに自覚があるのかも知れない。しかし、無自覚だったら恐怖である。なんたって「気味の悪いことをしている」感覚がないんだもの。
近くにもいた。ほんとに気味の悪い人。もう無関係の関係なのに、近くにこまめに出没し、暇さえあれば駐車場をチェックしに来て、なんだか目的が理解できない。意味なくこちらを探るとか、探っていないかも知れないけれど、わざわざ回り込んで見に来たり、黙って通り過ぎることをルーチンにしたり、関係先とか近い位置に在籍してずっと関係を切らないでいる。怖いです。怖いのでほんとにやめてください。

最近なのか、昔々からいたのか、よくわからないけれど、気味の悪い癖を持つ人もいる。特徴は強い「知りたい」欲求。「知っていたい」「知っていないと気持ち悪い」「知っておくべきなのだ」と自ら暗示をかけてしまう人がいた。これはもうクセではなくヘキである。
昔の話だが知り合いの経営者から、こんな話を聞いた。やめてもらった職員の話である。その職員は、複数の同僚から名指しで「気持ち悪い」と言われていたそうである。残業の多い職員だった。“何でも知っていたい”気持ちが抑えられなくて、同僚が帰った後、全員の引き出しを順番にあける。新しい持ち物があればチェック。郵便物の差出人と内容をチェック、書類があればすべてに目を通していた。
「気持ち悪い」告発の内容に衝撃を受け、その経営者は1対複数のイジメを疑ったという。職員を呼び出して「あなたは、みんなの引き出しを許可なく開けないよね」と聴くと、すんなり事実として認めた。認めたことも驚いたが、「“知りたい”がやめられないんです。子どものころから癖なんです。気持ち悪いのはわかってるんです。でも我慢できない、やめられないんです」と打ち明けられ、愕然としたそうだ。本人にとっても、周囲にとっても、誰にもメリットがない。気味が悪いし、出口がない。なにがそうさせるのか、欲求なのか、トラウマなのか、馴染みすぎてそれがすでに普通なのか。自己客観視の手順もすっ飛ばし、やめないことを続けルーチン化した積み重ねなのか。
そうなると「やめられない」対策はどうしたらよいのだろう。「やめられない」のをやめるのはかなり難しい。私自身「先延ばしをやめる」「出勤前のぐずぐずをやめる」など、笑われそうな課題がたくさんあるけど、これをやめるのは至難の業なんである。すっぱり解決する道筋を考えると頭を抱えてします。
ならば、「やめられない」に焦点を置くのではなく、「これをやろう」にフォーカスした方が楽なのではなかろうか。先延ばしは「ちょっとだけでも手をつける」朝のぐずぐずは「朝、テレビをミュートにする」「気まぐれな順番を統一する」とか。子どもみたいけど、今更良い年した大人が言うことじゃないかも知れないけど。
鏡の中の私は、前髪のない「ちびまるこちゃん」のようだった。老け顔だから年季の入った「おばまるこちゃん」である。悲しくなるから、一瞥して鏡はもう見ない。でもチラッと見た感じ、少し幼く見えるかも。ちょっと雰囲気軽くなったかも。よくよく見るとシワも目立つし、ほうれい線も瞼の垂れも気になる。よくよく人さまに細部を見られないように、顔を合わせても遠目で対応できる術があると良いのに。もしくは、素早くアクティブに動き回れば、相手はこちらの落ち着きのなさに気をとられ、目尻や口元の皺、右頬のシミや、年相応の首の拠れ、左右対称でない眉とかの細部は、見落としてくれるかもしれない。
人は年を取る。微細な顔貌など気にする必要はないじゃないか。素早くアクティブに、反復横跳びしながらの商談なり面談を編み出そうとしている方がよっぽどどうかしている。小賢しく対応策を考える癖は、ほんとうにもうやめた方がいい。手放した方がいい。
「なんとかなったよー」後ろのスタイルを見せる手鏡を持ちながら、店長が安堵している。「なんとかなりましたねー」と、ほんとにもうやめてよねー、失敗しても文句言わないから心の声の駄々漏らしはやめてよねーと内心思いながら、私もほっとしているんである。