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carryforward&implying

木綿鬘は明け方の雲。数多を含んで光る帯。早起きの恩恵である。
日曜なのに明け方前に目が覚めた。
昨日の勉強会はジェンドリン博士。体験過程を象徴化してフォーカシングを提唱した。日頃の「なんとなく」が証明されていくのは気持ちがいい。「慣れ親しんだ在り方とは異なる仕方で私たちが生きる時、暗に指示された行いや語りは静かに変化する」。


事故を起こした。道路外事故。駐車場で切り返しが早すぎた。無人の隣の車両に傷をつけてしまった。ナンバープレートは他県。まっすぐ帰宅すればよかったのに。気まぐれに足を延ばした結果。当たり所のない自己嫌悪に襲われる。ここは小さな温泉施設の駐車場である。腹から勇気を絞り出して、フロントに向かう。「関与はできませんけど…」と言いつつ、駐車場まで出てくださる。「レンタカーのようですね、少々お待ちください」、相手の方は入浴したばかりとのこと。すぐに出て来られる状況ではない。


他県ナンバー。どんな人が出てくるのだろう。ご夫婦かなあ、カップルかなあ。すっごいコワモテの4人組とかだったらどうしよう。すっごい難しい人だったらどうしよう。どうもしようがないですね。腹を括るしかないですね。
さてはて、現れたのは大学生の男の子たちである。軽―く、ひゃらひゃら~という感じで登場した。お詫びをして説明をする。「レンタカーのようですが…」と切り出して、連絡先ステッカーを写メしてもらう。電話すると、警察の対応が済んだらもう一度連絡くださいとのこと。110番して管轄署の連絡を待っていると、「30分ほどお待ちください」との返事。相手の方々には館内で待っていただいて、夕暮れの駐車場で独り言ちる。空白みたいな時間である。


町のはずれである。手持ち無沙汰である。駐車場の縁には何種類かの樹木があり、その下には、色とりどり季節の花が咲いている。手当り次第、picture thisアプリで撮影し、名前を調べる。これはカナムグラ、こっちはアザレア、となりにドウダンツツジ。山椒にヒルザキツキミソウ。裏手に広がる畑のほうまで足を延ばす。アメリカフウロに野蒜。ベニバナユウゲショウ。目の前には立派なキャベツ畑が広がり、無数のモンシロチョウがヒラヒラしている。
事故を起こしておいてなんだけど、豊かだなあ、優雅な時間だなあと感じる。こちらに向かっているのは、パトカーだろうか、「県警」って書かれた箱を後ろに載せたバイクだろうか。到着にはまだしばらくかかりそうだ。
雲を見る。刷毛ではいたような薄い雲。熊手みたいに扇状に広がる。その少し先を、夕方の日を反射させて、妙にきらめく飛行機が静かに横切っていく。
「車検証、自賠責保険、免許証をご準備ください」。電話の先で警察の人が言った。加入している損保会社に連絡しなくてはならない。新しい保険証券は机の上に置いたままだ。連絡先が分からない。後手だ。気持ちが急いてくる。
急かされるのは、過ぎた時間の中の自分である。
ジェンドリンは「クライアントの中のクライアント:意識の辺縁」で、感情の応答は、“変化のステップがやってくるような‘それ’”を厳密には「感情」ではないと述べた。“‘それ’は不明瞭な辺縁(edge)から、言葉や知識以上のものを含んだ「感覚」からやってくる”“落ち着かない感覚があるときは、その方向に注意を向けることができる”
(ユージン・T・ジェンドリン 著 初出『クライアントのクライアント:覚知のへり』1999/2015新訳 久羽康、吉良康之(訳))

取り乱しても仕方がない。反省はしても、むやみに感情に持ち込むことは避けたい。起こるべきして起きた出来事の気もしてする。ぼーっとしていたり、なし崩し的に、なにかの続きを緩慢に続けた散漫な動作が招いた警告だったのかもしれない。寄り道なんてしなくても、今日は十分でしょ的な教訓を含んでいたかもしれない。


起きたことは起きたこと。自ら起こしたことに違いない。受け入れたら、余計な付録をつけずすべきことを為すだけだ。なのにどうして。どうして正当化したがるなにかが顔を出すのか。どうして何かを差し出して、どこかに許しを得るような、理解を得たがる余計な不純物が、心から滲み出てくるのか。
ぶつけてしまった時、私は躊躇した。瞬間的に周囲を見て、オーディエンスを確認さえした。どうしよう。相手がレンタカーだと知った時、妙な試算をした。事故相手の感情、例えば「自分の持ち物ではない車の損傷的感情」や、金額的損失に関する感情、時間的損失による感情。なんのための推測か。許しのためか。駆け引きのためか。責められる可能性のある要素を、勝手に推し量ろうとした。制御領域以外のものを、推し量ってどうしようと思ったのか。浅慮だ。自動思考のように、落ち度を棚上げして駆け引きに持ち込むシミュレーションしたのだ。防犯カメラがあったなら、逡巡しながらフロントに向かっている私が映っているはずなんである。
誠実に変容を求めた私はどこに行った。情けない自分が情けなくて、思い切り大股で威勢をつけて歩いた。

手続きが済んで、レンタカー会社の保険会社の指示通り、運転していた大学生と連絡先を交換した。若さを振りまいて、彼らは駐車場から出て行った。帰路なのか、新たなお出かけ先なのかわからない。
大学生の4人旅。見ているだけで楽しそうで、旅先の貴重な時間を奪ってしまったと思うと申し訳なかった。そう言ったら、明るくおおらかに「だいじょぶっすよー」とわいわいがやがやと答えてくれた。「腹減ったー」「冷えてきたー」若者パワーとでもいうのだろうか。にこやかに、こちらを責める気配なしに、あっけらかんと。その明るさは、こちらの自己嫌悪を溶かしていく。そういえば、みんな奇麗な顔をしていた。在学している学部名まで教えてくれた。(もちろんこちらが一方的に悪いのだけれど)相手が見えない環境で構えてしまっていた自分が滑稽に思えてくる。なにをしていても楽しそうな若さが、彼らを通して自分を愛しく思うような、都合の良い気分まで連れてくる。


彼らに、お礼を言った時、何かが書き換わった気がした。事故を起こした当初の気持ち自体、変容した気がした。1時間巻き戻って体験自体が上書きされる。意味を変えて。あれ以降の言葉が連れてきた言言葉なのだ。
雲を見る。刷毛ではいたような、扇状に広がる儚い雲。少し先を、夕方の日を反射させて、妙にきらめく飛行機が横切る。静かに。
先日、散歩の途中で、友人が「雲好きよね」と隣で言った。「うん、大好き」。


誰か一緒でも、空ばかり見上げている。心が広がる気持ちがする。きゅうきゅう狭まった心が、伸びやかさを取り戻していく気配が雲にはある。
空に浮かび、流れる雲。濃くなったり薄くなったり、夕焼けのお日さま次第で、西の空を朱くしたり、ピンクに染め上げ、時に神秘な薄紫で。
行雲流水。水は低いほうに流れる。よどみなく自然に。雲は行く、流れるように移ろっていき、数分後には姿を変えて、一時もとどまることなく。
強固な意志で動かないのは、毅然としてかっこよく見えたりするけど、強い自分を主張する分、執着の匂いがする。けれど同じ「動かない」でも、流れを受け入れるのと、ただ留まっているのは、全然違う。流れを受け入れる。どこに流れるかわからなくても、見つめていればやがて兆しが見えてくる。
それを横着と言うんじゃない? など私の中の外野が揶揄する。うるさいな。事故は起こしたけれど、でもなんだか、若い子たちが優しかったからか、優しい人たちと処理をして、私も精いっぱい償わなくちゃと奇麗な気持ちにしてもらえたのか、とても気持ちよい夕暮れになったんである。
ねえ、朝の空。きれいな雲と一緒だとあなたの気持ちが良いのでしょうかね。事故を起こして、「良かった」などと言ってる私は、やはりもうちょっとちゃんとすべきなんでしょうかね。けれど行雲流水、そしてcarryforward&imply.良い一日になりそうだ。