お金はエネルギーである。そうして時間もお金と同じ意味を持っている。 お朔日に通う神社の例大祭に参加している。 一年に一度しか開かない本殿の扉、年に一度しか入れない社殿と本殿との間の中庭。好奇心に負けて、私にとっては大枚はたいての参加なんである。 祝詞からはじまり、収穫された旬の野菜、お頭つきの鯛、果物や新米を丸めた餅、たくさんのお供え物が、たくさんの神職の手で運ばれる。親善の前では膝で進むのが決まりらしい。目の前で執り行われる儀式は、もちろん非日常なんである。 ほぼ飛び込みの参加なので、私の席は末席である。めったにない機会だから、好奇心に白旗上げてあれこれ堪能したいのに、目に入るのは大勢の人の後頭部なのである。 神聖な時のはず。前の女性が耳裏に忍ばせた香水がきつい。集中が持たず、週初めの会議を考える。きっと思う通りにはいかないだろう。予定したタスク、すんなり通すことができるだろうか。 昨夜は研究会だった。テーマは「ホープアクション理論」。持続的な希望の維持。コンピテンシーは5つ。自己啓発力と自己明確化。そうしてビジョンと目標設定。そうして実行力。言葉で並べるとその通りなんだと思う。でもさ、行動は…と、現実に落とし込む想像も持てない。立てた目標に私たちは適応していけるんだろうか。苛立ちが立ち上がる。 最近は内省ばかり。内省に足をすくわれ、計画は順調に運ばない。風が吹いて、ケヤキが一斉に落葉する。参列している人たちから、歓声が上がる。 例祭が一通り終わり、参加した神職の紹介がある。日が良いので、境内に集まっている七五三家族の賑わいも聞こえてくる。オウムのピーちゃんが何やら騒いでいる。 紹介される神職の順番が気になる。フラットを自認しているのに、与えられた末席を気にする自分に驚かされている。 神前は今日一日扉を開けておくそうだ。神前の白布に注がれたたくさんの時と、多くの祈りを考えている。 直来。例祭の終了後に神前に供えた御饌を神職と参列者でいただくことを指す言葉だそうだ。でも、なんとなく年配のおじさんたちとの飲み会のように感じてしまう。あちこちでお酌しあう会の場で、決して酌婦になぞなってたまるかと、頑なに身構えている自分がいる。 となりあった男性は、今年から氏子の会長になった方だ。まだ新米のようで、年配者からの教えが降り注がれている。...
秋が来た。やっとの秋、待ち詫びていましたぞ。街路樹の葉先がオレンジ。黄色、緑のまだら変色が始まっている。 親戚が集えば、自然、近所のダレヤカレヤの話になる。若い頃なら、話題はおめでたごとが主流だったけれど、メンツはもう若くはないので、病気や施設入所、はたまた鬼籍に入った人の話になる。「92までは元気だったのにねえ」「わからないもんだよねえ」。そもそも実家のご近所さんの話題に疎い身としては、話題には入れない。孫と一緒に茶菓子をつつきながら、手持無沙汰なんである。 「ばあばは4桁生きて」。 孫からの不意打ちの耳打ちである。 4桁というと最低でも1000歳? 「うん」いくら可愛いあなたのお願いでもねえ、それはちょっと無理だなあ。叶えてあげられるようがんばってみたいけどね。孫の表情が曇る。なんだなんだ? 急になんでそんなこと言うの? ふふふと孫は答えない。 夢を見る、目が覚める。さえずる雀、玄関先に立って空をみていると、求愛活動なのか、グループ活動なのか、伝達しながらピヨピヨ飛び回る、楽しそうだ。そもそもこれって雀なの? 無知を楽しむ朝の空。幸せだ。 世界がサラになったような朝。本格的な秋の到来。空気が違う。空にはたなびき美し模様の雲。単に昨日の続きが連れてきた朝じゃない。もしかして夢の続き? 朝の瞑想ならぬ、朝の妄想。違う世界にパラレルした気分を味わう。私ではないだれか。新しい人生。能力にあふれて、万能感に満ちた一日が始まる。資金繰りも、ぐるりの環境も、ニーズを満たせていない現実を考える必要のない私じゃない誰か。もやもやなんてどこ吹く風。どうせなら、マイナス10キロくらいの細身スタイルのビジュアルがいいな。 集積所には“燃やすゴミ”が積まれている。今日は水曜日か。途端に現実に引き戻される。あーあ、なんだかちょっと楽しい気分だったのにな。 内閣が変わった。高市総理の誕生だ。女性とか男性とか区分して考えるのは好きではないものの、なぜか新鮮である。偉い人のこと。十分発言には考慮を重ねて発するのだろうけれど、この人の言葉はまっすぐ寄り道せずに届いてくる。正直で率直な言葉である。大きな笑顔、艶々な髪。髪はいずれにしても、笑顔自体がこの人の大きな武器なのだろう。この笑顔と正直さで、この人は目の前の道を歩いでいくのだろう。次々繰り出される障害を、上手に避けたり、...