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復活のビリジアン

深緑。最近縁のある色である。 普段履きのペタンコ靴が欲しくて、何足かマーケットで試し履きをした。候補に挙げた靴をあーでもない、こうでもないと吟味を重ねて通販で買った。黒を選んだつもりなのに、届いた靴の色は深緑。粗忽な単純ミスである。 心機一転を試みて、カッコイイ黒のエナメルパンプスをポチッた。届いたのは、キラキラピカピカの深緑。まるで水から出てきたばかりのようなガマガエル色。 駐車場でナゾの球体を拾った。むやみに落ちてるものを触ってはいけません。なのに好奇心に負けて手に取ってしまう。色は深緑。機械油でてらてら光っている。これから大事な打ち合わせというのに、手は機械油でべとべとになった。なんなの、もう。そんな色してたら、手に取っちまうじゃないのさ。好奇心の誘惑と、すぐに勢いに負けるタチを後悔する。 それにしても深緑。今の私、深緑が旬なわけ? サクラ絵の具12色セットに、ナゾの名を持つ深緑、あれはビリジアンと言ったっけ。 だいたいさ、なにかとやたらコンニチハしてくる深緑。何か意見でもあるのかい? 深緑。色の意味を問うてやろう。喧嘩腰にグーグル先生に尋ねれば、色言葉は、疲れ、不安、干渉やら呑み込まれやらなんやら。マイナスメッセージばかりじゃないか。あれれ、下の方まで見たら「集合的無意識」とも書いてある。あらら。これならなんだか受け入れられるかも知れないわ。 最近植物が怖い人の話を聴いた。緑の葉っぱが嫌なのだそう。彼の眼には、緑の葉っぱ1枚1枚が、カサカサ動き回る嫌われ者の虫(Gのことだ!)のごとく映るんだそう。そんな人いるんだ。そんな人は、きっと深緑も嫌いなんだろうな。 「深緑」が今日のテーマ。 「深い水の底は見ることができない」水の底は、そもそも濁ってたら水底なんか見えやしない。詩的な文章だ。水底に潜って探索を続けよう。
澄み切った水底は深さを惑わせる。魅入らせて深みに引きずり込み透明は、恐怖を神秘に変換させているのかも知れない。 澄み切った水には冷たさを想定させない。水底にはなにがある。濁った水を恋しくさせる。。見通しをつけるきっかけは、実は濁りや汚れなのかも知れない。サウンドオブサイレンス的な混沌。目を凝らして絡まったあれやこれやの糸口を探す・・・いやいや、考えたいのは集合的無意識。澄んだ水の話じゃなかった。 無意識の底に潜んでいるのは、“集...
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よたよたペンギン

シリウスをご存じだろうか。太陽の次に明るい一等星。孤高の星でもある。 不眠である。毎晩ではないものの辛い。 夜明け前に目が覚めて、嫌なことを考えるのが止められない。朝が来れば笑い飛ばせる。笑い飛ばすことができてるようになる。なんであんな変なことを考えちゃったんだろうね。きっと惑う時間帯と、仲良くし出してるに違いない。先に進まなくてはいけない。言い聞かせながら眠りに就くが、夜になると無数のニードルのような狂気が心を苛んでくる。手に負えない。無念なのか、悔しさか。容易に他者を信じた愚かさか。夜通し後悔に痛めつけられる。 仕舞い方がわからない無能な奴め。愚かなくせにナニサマのつもりだったのか。。眠れない自分を、妙に覚醒したあるべきはずの自分を糾弾する。一睡もできない。昼に整理をつけたはずの感情が、寝しなに不穏な昂ぶりを兆し出す。最近親しくなったgeminiちゃんに、悪しき感情の制し方を尋ねてみる。感情のおさめ方について教えを乞う。 得た答えは、一時絶大な説得力を持つのだけれど、砂地に立つ棒切れのように、夜になれば非力だ。どうにも手に余る感情に説き伏せられる。イライラなのか、怒りなのか、戸惑いか、悲壮なのか絶望なのか、見極めることができずに混濁する。わからないもの相手の戦いは、周知の事実であるけど対処しようがない。お手上げ状態である。 間違えてはいない。なるべくして得た最良の結論だとも思っている。納得しているはずである。気持ちを整え、シフトチェンジはうまく行った。なのにである。こいつは夜になると、とてつもない勢いで感情を暴発させるのである。 草津に来ている。休養に来たはずなのに、後悔に悶絶したまま夜を明かし、一睡もできないまま朝がきた。 今日から娘夫婦が合流し、夜は長子の孫と過ごすのが恒例である。部屋の電気を消したあと、私と孫は、布団をかぶって密かな女子トークを繰り広げる。大抵は小4になる孫のウチワ話を聴くのだが、最近の彼女は妙に大人びて、手放しで私を慕ってはくれない様子。女の子は成長が早いのだ。寂しいかな、蜜月はそろそろ終了のよう、もやもやする脳みその中で現実を見つめている。 昨夜は寝てないから、孫の来室はなしでお願いしたい。まあ、妙に大人びてきているから、孫もそう残念に思うことはないと思う。残念だけど。娘にそんな言い訳を持ち出した。娘は孫...

20250331 サヨナラの月

卒業式は3月。入学式や入社式は4月。新しい期の切替は4月。それをサクラの花が華やかに見守る。馴染んだ考えではあるんだけど、グローバル的に見れば実は日本特有の文化。欧米だと、期の始まりは9月で夏の終わり。春じゃない。 3月はサヨナラの月。月の終わりに近い日に、突然電話をもらうこともしばしば。 「実は今月で異動なんです」「実は今月末で終わりなんです」。アラアラ大変、ご挨拶に伺いますね、と菓子折り持って足を運ぶ。なんだかね、ちょっと寂しくて、電話するのが遅くなっちゃって。なんだか名残惜しくてね。 急な別れを惜しむなら、日頃からもっとまめに会いに行っていればよかったものを。残念な思いで一杯になる。 急に行ってもナー、先方も忙しいんだろうしナー、など億劫がりにかこつけた自己都合で気を遣い、横着する。その上でのアラアラ大変なのだから、ザラッとした心残りが確かにあるのを噛み締める。 水星人は別れを悲しまない。なぜなら一緒に過ごす時間に、その日、その時を精一杯に過ごすことを尽くすから。後悔を残すことなく、水星人は悔恨なくサヨナラと笑顔で手を振るらしい(村上春樹初期の小説から~タイトル、忘れました)。 水星人に巡り合ったことはないけれど、木星人にも、もちろん火星人にも会ったことはないんだけれど、20代の頃に読んだエピソードはずっと心の芯に残っている。昔々の人びとの人づきあいって、実はこれに近いものではなかったか。時々そう思う。 車も電車もバスだって、もちろんスマホも電話も、メールだってなかったのだから、有事の時にとてもじゃないけど間に合わない。用があったってリアルタイムに繋がれない。急ぎの伝達だって誰か人の足頼みの手段だった。 手紙。紙の色を選んでみたり、字の勢いに心を込めてみたり。花のついた枝に結んでみたり、花言葉をそっと込めたり。今で言うところの絵文字、スタンプ様に文字で伝えきれない思いを託す。心のままに伝えたいと願う切実。都度都度の出会いが今生の別れになっても仕方のない昔びとの付き合い方。受け取った方だってないがしろにできるものではなかったろう。 そんな一期一会と、時に社交辞令という名のパッケージでくるまれちゃいそうな、現代の別れの惜しみ方。昔に比べたら、関わるコミュニティも、出会いの数も、今とはダンチで桁違い。ナニをナニで割り出したら数や割合の...

春の山

春の山である。ああ、いつのまに。桜色の春の山。 朝、見上げた春の山。通勤途中に春の山。なにか変だぞ春の山。いや違う。桜じゃないや、昨日の雪。雪が山頂に残ってるんだと気づいたのは、お昼を食べた後である。 そう、雪。午後から降り出した静かな雪。穏やかな3月の日差しに溶けて、すっかりアスファルトの上からは姿を消した昨日の雪だったのである。 思い込みって可笑しいな。それって、潜在意識が思いの外、花を待ち望んでるってことなのかしら。梅が綺麗だしなあ、偕楽園行きたいなあ。河津桜、まだだったしなあ。桃って言えば蜜が強くて、滴った枝がいつもテラテラしてたなあ。太平山の玉子焼きと団子が恋しいなあ。そんなこんなのわっさわっさした欲望が、雪をサクラにしちゃったんだわね。苦笑いの原因を作って、ひとり浮かれていた自分が可笑しい。 戦争をしている国のトップと、支援をしている新しいリーダーの対談があった。両者の意見はカメラの前で分断。対話はなぜ分断したのか。戦争している国のトップが訴えているのは、理不尽な現状の理解と公正な立場でのジャッジ。新しいリーダーの発言の意図は、解決への道筋提案。論点が噛み合っていないから対話はおのずと平行線となる。 戦争は憎むべき行為。感情過多の私たちの思いは、平和すぎる所以の夢物語なのか。守るべきものを持つ立場の感情は、悲しみMaxである。 生まれて初めて、「一睡もできない」日に苛まれている。日中に白日夢を見る。うつらうつらしながらもそこにヒントが含まれているような気がして、覚えているうちとったメモ書き。「相撲の絵」「ぱちぱち」。なんだこれは。ヒントなどではない、ただの混乱である。 そう言えば…と底の方から浮かぶ記憶があった。 昔々。まだ母親になって間もない頃。長男の夜泣きに悩まされた。いくらでも眠れるのだけど、世に出てきたばかりの我が子はそれを許してはくれなかった。家事は子どもが寝ているうちに。昼の共寝などダメな母親の象徴のように思い込んでいた。明け方に目覚めたときの記憶。まるで夢の続きの悪夢。母乳を含ませても泣き止まない。おむつは濡れていない。あやそうにも起き上がれない。長男の泣き声は自分を責めたてているように響いた。愛情が足りていない。眠らない長男は、声を上げて母親としての自覚を問い質している。役割と未熟。心が疑心暗鬼という鬼に支配される...

世界の詩人

谷川俊太郎氏が逝去された。11月13日、92歳だった。 日本で唯一と言っていい。詩作でご飯を食べられた貴重な詩人である。 柔らかな文体で心に真っ直ぐ届く言葉の片々。感性をぎゅっと短い言葉に託す、生まれ持っての優れた才能と思っていた。けれど、才能の裏にはたくさんの試行錯誤があった。と、あらためて気づいたのは、購入した谷川俊太郎詩選集2を読んでのことである。 見たものを感じたまま言葉にする秀作が並んでいる。「なんでもないものの尊厳」「コップへの不可能な接近」「りんごへの固執」。“今、ここ”で感じたことを、対象を見つめながら、過ぎ去っていく時間と戦いながら、油断したら言葉にする前に消えていく感覚を確実な言葉にして捕まえて行く。そんな習作のような作品群だ。 某テレビ局の問題が世間を騒がせている。たくさんのCMが流れるはずのTV画面が、番組の予告画面で埋められている。 何が起こったかわからない。守秘義務を遵守しようとする建前的な問題と、コンプライアンスについての世間への申し開きが鬩ぎあっている。実体のない罪、当たり前になりすぎて、なにが問題だったのか掴み切れず、対応が不明瞭なままの記者会見。私は見入っている。価値観の変遷。もしもこんなことが「普通」に行われていたのかという驚愕。しかもその内容は、ドラマや通説で知っていたような類のものが、実態を持って解明を待たれている。 申し開きをしているお偉方は言葉を慎重に選ぶ。それは核心に触れさせまいとする精一杯のようにも見えてくる。責める側は狂気を帯びているようにも見える。真実の解明を盾に、それは恐ろしいほど知性を感じさせない応酬だ。 事実がどうということを述べる立場にないが、言葉は武器だとそれだけを強く感じる。力を持った者が弱い者の尊厳を踏みにじる。見え隠れするのは、「相手は口をつぐむだろう」と言った姑息で卑劣な思惑だ。発した言葉尻を捉えられないために、普段は饒舌だったはずの口をつぐんで隠遁する。そんな構図に皆がこの時ばかりと逃がすまいと奮起する。 問題となっているのは、なぜそうしなかったのか、なぜ見過ごしたのか、なぜそれを問題視しなかったのか。それは加害者からしたら「想定内」と感じていた感覚であり、それを「当たり前」としてきた価値観である。問われているのは「過去」の時間のことであり、対応する方になんだか見...

新年

あけましておめでとうございます。 年末、ばたばたとして大晦日に年賀状を書いている。 昨日から家人と温泉に来ているものの、けんかが長引いていてひとつも楽しくない。原因はなんだったのか、ささいなことで言い合いになり、めげている。めげているのに年賀状。気持ちが字に表れているようでやるせない。散歩に行きたくても雪。滑って転んで骨折したいつだかの正月の記憶が鮮明で、ますますやるせない。 仲直りしたくても、仲たがいの理由が覚束なくて、謝る言葉が浮かばない、あーあである。そんななか、孫が来た。子どもだけで泊まることになり、まさに救いの神である。 小学3年生女子ともなると、あまりばあばと口をきいてくれない。弟君の方と仲良くしていると、その様子を横目で観察されているようで、変に気が引ける。面倒くさいからウツウツを放り出すことに決める。射的に向かう。 輪投げにボードゲーム、3人で夢中になっていると用意してきた小銭がなくなる。なんか今日の私たち、バクチうちだよね。バクチってなあに? いいからいいから。 おねえちゃんと温泉に行く。不思議に温泉大好き女子である。3歳くらいから“温泉”と言うと、ママから離れて一人で温泉についてくる。お湯に入って女子トークをするのが彼女の楽しみである。弟君は幼稚園生だが男の子なので、女風呂には連れてこない。 露天風呂には誰もいない。すると彼女はすまし顔をやめて「今から歌います!」と、不思議なショータイムがはじまった。 まずは1番、一番下の弟の歌。2番はすぐ下の弟の歌、パパの歌、ママの歌と続いて、最後は私の歌と、全部で13番まである近況を謳った彼女のオリジナルソング(ダンス付き)の時間である。 よくまあ、観察しているな。彼女の弟への思い、日頃の生活ぶり、家でのこと、学校やバスケチームのこと。お話はしてくれないが、全部歌に入っていて愉快である。 「わたしはあママが少しダイキライ~、すぐに私を怒るからあ」ってオイオイ、あんまり笑わさないで。りんごが浮かぶ露天風呂に入ると、りんごを一か所に集めて、朝礼ごっこがはじまる。どこからか小枝を拾ってきて、自分は校長先生気取りで楽しいごっこ遊びを披露してくれた。 食事がすんで、プロジェクションマッピングを見に行く。会場までなかなか辿り着かない。道々のどんぐりや松ぼっくりを拾ったり、じゃんけん...

未来の手応え

孫からラインが届いた。 「ばあば、あたらしいくつがほしいの。買ってくれませんか」 「いいですよ」と返事をすると「やったー」「ありがとう」とスタンプで返信がある。今月は孫の誕生日がある。誕生日プレゼントのリクエストなのだろう。 小学3年生になって、孫はバスケットボールのチームに入った。水曜以外の夕方から夜にかけて、土曜日、日曜日はほとんど練習試合か遠征試合。会える時間がだんだん減っている。 さてさて、子どもの靴は一体どこに行けば買えるのだろう。娘に聞けば、「そんなのどこでも売っているでしょう」と返って来る。はてさて、どこに行けばいいんだ? 買い物など大抵通販で済ませてしまう身の上では、郊外型のショッピングモールなど混雑している所に出かけたくはない。 いつもなら高速で出かけるところ、下道でゆっくりドライブする。鬼怒川を渡ると、左手に公園があって、きっと今頃はコスモスが満開だ。目を凝らすと遠くにピンク一面のスペースが見える。 靴を買う。今日は娘がいないので、2人の子守はちょっと荷が重い。ちょっとヒヤヒヤのデパートなんである。足のサイズを図ってもらい、孫は綺麗な紫のグラデーションの靴を選んだ。隣にスケッチャーズのスリップインズが並んでいて、こっちのほうが良いんじゃない? と孫に確認すると、グラデーションの方が欲しいのだそう。下の子は金色と赤色と、どちらにしようか真剣に悩んでいる。時間をかけて迷った果てに赤い靴と決めたので、レジに行こうとすると、「ばあば、やっぱり2足欲しい」と孫が言ってくる。 娘がいると、絶対欲しいものを自分で決めることをしないのに、そんな小さなわがままがとても愛しい。喜び勇んで、お財布のひもを緩める自分がとても可笑しい。 想定していたが、娘にはたっぷりお灸をすえられた。 2足ぐらい良いじゃないか。なにをそんなに怒られなきゃならんのか。孫の顔を見ると、一見しゅんとして見えるけれど、瞳の真ん中はきらきらだ。孫はもう9歳。一体いつまで私とお出かけしてくれるのだろう。どこかの園長先生が言っていたな。乳児の頃は泣きわめき、幼児の頃は手がかかり、小学生で走り回る。年老いてくると子守は辛いけれど、そう言っていられるうちが花ですよ。中学、高校になったら、じいじ、ばあばなど見向きもされなくなるんです。 そうかもしれないな、でもね、それが成長じゃな...