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carryforward&implying

木綿鬘は明け方の雲。数多を含んで光る帯。早起きの恩恵である。 日曜なのに明け方前に目が覚めた。 昨日の勉強会はジェンドリン博士。体験過程を象徴化してフォーカシングを提唱した。日頃の「なんとなく」が証明されていくのは気持ちがいい。「慣れ親しんだ在り方とは異なる仕方で私たちが生きる時、暗に指示された行いや語りは静かに変化する」。 事故を起こした。道路外事故。駐車場で切り返しが早すぎた。無人の隣の車両に傷をつけてしまった。ナンバープレートは他県。まっすぐ帰宅すればよかったのに、帰り道気まぐれに足を延ばした結果の事故。当たり所のない自己嫌悪に襲われる。ここは小さな温泉施設の駐車場である。腹から勇気を絞り出して、フロントに向かう。「関与はできませんけど…」と言いつつ、駐車場まで出てくださる。「レンタカーのようですね、少々お待ちください」、相手の方は入浴したばかりとのこと。すぐに出て来られる状況ではない。 他県ナンバー。どんな人が出てくるのだろう。ご夫婦かなあ、カップルかなあ。すっごいコワモテの4人組とかだったらどうしよう。すっごい難しい人だったらどうしよう。どうもしようがないですね。腹を括るしかないですね。 さてはて、現れたのは大学生の男の子たちである。軽―く、ひゃらひゃら~という感じで登場した。お詫びをして説明をする。「レンタカーのようですが…」と切り出して、連絡先ステッカーを写メしてもらう。電話すると、警察の対応が済んだらもう一度連絡くださいとのこと。110番して管轄署の連絡を待っていると、「30分ほどお待ちください」との返事。相手の方々には館内で待っていただいて、夕暮れの駐車場で独り言ちる。空白みたいな時間である。 町のはずれである。手持ち無沙汰である。駐車場の縁には何種類かの樹木があり、その下には、色とりどり季節の花が咲いている。手当り次第、picture thisアプリで撮影し、名前を調べる。これはカナムグラ、こっちはアザレア、となりにドウダンツツジ。山椒にヒルザキツキミソウ。裏手に広がる畑のほうまで足を延ばす。アメリカフウロに野蒜。ベニバナユウゲショウ。目の前には立派なキャベツ畑が広がり、無数のモンシロチョウがヒラヒラしている。 事故を起こしておいてなんだけど、豊かだなあ、優雅な時間だなあと感じる。こちらに向かってい...

やめられない

美容室にいる。髪を切るのは3ヶ月に1度。私の髪は伸びるのが早い。身長が低いのに、髪が重いと鈍重に見える。若い頃は、見た目に頓着などしなかったけれど、今は容貌が少し気になる。加齢のなせる業だ。 「今日は何センチ切る?」聞かれるけれど、リクエストは叶えられた試しがない。「15センチ切って。思いっきり短く」「やめときな。手入れが大変だから。長さ変えずに軽くしておくよ」。いつもこのやりとりが儀式。説き伏せられてお任せになる。目の前に並ぶ週刊誌の目次をチェックして、興味のある頁をつまんで、持ってきた本に没頭する…んだけど、今日はしきりと後ろから独り言が聞こえてくる。 「おっかしいな」「うまくいかんな」「あれ、どうすっかな」ぶつぶつぶつ、ぶつぶつぶつ。私の髪を切りながら言っているから、おっかしいのは十中八九私の髪だ。聞きたくないから鏡越しに目で答えを促す。「なんか今日、調子悪いね、うまくいかないね」…うまくいかないのは困ったな。あらためて床を見れば、既にずいぶんな量の髪。「うふふ、どゆこと?」「揃わなくてさ、やめらんない」いや、やめてもらっていいですか? そういう日があっちゃだめでしょ。一回落ち着いて立ち止まりましょう。と言えない気質である。へらへら笑って、「そういう日もありますねー」とか言っている。任せている身とすれば、代わってどうにかできるわけもなく、諦めの境地である。 「やめられない」か。小さい頃、爪を噛むのをやめられなかった。弁えの良いタチで、大人の前ではやらなかったから、見つかっていないと思っていた。注意されないからますますやめない。やめないどころかエスカレートして、隠れて足の親指の爪まで噛んでいた。その怪しい恰好が“はじめ人間ギャートルズ”みたくてやめられなかった。 小5になった時、担任の先生が気づかれて、親に言いつけられた。「お宅のお子さん、爪を噛む癖があります」親もびっくりしたようだったが、私自身、心の底からびっくりした。どこで見つかったのか想像もつかなかった。大人になって考えれば、爪噛み現行犯現場を押さえたのではなく、ふだんの爪の形の不自然さから判断したのだと思う。しかしまあ、よくもまあ、こんな私なんぞの爪先まで注視していたもんだと感心する。口うるさく注意されれば、癖は次第に解消される。K先生、今もお元気かしら。 「やめられない」にも種類...

靄る春

春を連れてくるのは佐保姫。 霞の衣は春の季語、山が霞むのは落葉樹の息吹のせい。 なんだけど、その様は山が膨らんでいるようで、待ち望んだ春をすごく喜んでいるようでいるような様が「山笑う」季語になったのかも知れない。 佐野洋子が書いている文章がある。 “「ここの春はいっぺんにやって来る」” “「山が笑いをこらえている様に少しずつふくらんで来て、(中略)色が山一面にばらまいた様に現れる。くそ面白くもない毎日をすごしている私は、いとも軽薄に、腹の底から踊り狂う様に嬉しくなる」” (佐野洋子 著『神も仏もありませぬ』筑摩書房) 朝の雲はドラスティックである。 濃ゆい白と暗い層。厚みのある層は、大きく帯になって西から東へと移動していく。もしかしたら逆かも知れない。東から西に移動していく。そこに朝日。怖いもんなんてなにひとつありゃしないわよってな感じで朝日。堂々たる大物大君の登場である。 気まぐれに古米を庭に撒いている。寝坊したら気が付けないけれど、朝は鳥の声が転がる。朝の鳥は働き者である。でもうちの庭には降りて来てくれない。この状況って、働く気はあるのにどこにも巡り合えない、誰にも見つけてもらえない心許なさに繋がる。切ないこと言っているんだけど、あまりに朝が新しいから、心許なさは少し心を掠るくらいで、空気にすぐに溶けていってしまう。朝は良いよな、日曜の朝は特に。 家族がある程度意思疎通ができていると、母と娘は仲が良いとなりそうだけれど、そうでもない組み合わせもある。 兄弟に優劣をつけた覚えはないが、どうにも娘とはうまく話せないことが多い。2人で食事に行ったり、買い物に行ったこともほぼない。記憶にあるのは娘の就職。スーツと靴、それからバッグ。閉店間際に駆け込んで、それら全部を1時間かけずに買いそろえた。友人に言ったら、「それは買い物ではなく調達」と言われた。 仕事中に、学校に行っている娘から電話がかかってきたことがある。手短に答えた私の脇で、部下が「私が娘さんだったらまちがいなくグレてますね」と言われた。 「事務的すぎやしませんか?」 結婚式の親への手紙では「私は母が嫌いでした」と堂々と宣言され、初孫の出産も娘は実家ではなく嫁いだ先に里帰りした。「お母さんに私の面倒は見られない」と言い放たれた。まあね、あちらの親と仲が良いのは良いことである...

退化とのほほん

「もうダイジョブでちゅよ、痛かったでちゅね」。 どこかで聞いたような、そうでもないような声がする。ここは、クローズ前の動物病院の待合、昨日、愛猫が膀胱炎の診断を受けて、2日目の通院である。もうすぐ受付は終了だ。 声の主は大きな男性。ビジュアルイメージはガンキャノン。知的なモビルスーツ硬質なキャラ。うん、知ってる。縦にも横にも大層大きい体格。おなかもまんまるに突き出している。そうなると、機械的印象は応対の記憶か。愛想のなさとか頑なさとか、ガンガンストレートに事実だけ突きつける無機的な感じ。…思い出した。生活習慣病関連のドクターだ。  驚愕のガン見は失礼である。しかし、気になって仕方ない。「ダイジョブでちゅよ」? 「痛かったでちゅね」? 検査結果の値をもとに、一本調子の通達を投げつける。数値基準は専門家の矜持でもあるのだろう。頑なな表情とか、一切の甘えを撥ねつけるような表情とか、「自制心ないんですか」ともしかして言われちゃってる? とこちらが勝手に感じてしまう能面のような表情とか。え? あの先生? 嘘でしょ、同一人物? あらやだわ。見ちゃいけないモン見ちゃったわ。 チラ見がやめられない。好奇を抑止できない目線をモビルスーツ的生命体にロックオンされてしまった。じろりと睨まれる。失礼しました、ごめんなさい。観念して丁重に挨拶する。「こんばんは、いつも家人がお世話になって・・・」。とたんに相対する視線は厳しくなる。言葉を丁寧に取り繕っても、「見てましたよ、ずっと見てしまっていました。赤ちゃん言葉もしっかり聞きました、ごめんなさい、楽しかったです」って、しっかり顔に出てしまっている。赤ちゃん言葉の先生は、そそくさと大きな観葉植物の影に移動してしまった。 朝夕の寒暖差が激しく、2月なのに異例のあたたかさ。そしてまるで雨が落ちてこない。そうかと思えば不意の雪。大気に翻弄されているのは、お年頃の私たちだけではあるまい。 冬だか春だかも不明瞭。2月のうちに桜なんかも咲き出してくるんじゃないかと思えてくる。固定観念が覆る2026年の初春である。ぼーっとする。ぼーっとしている自分を漠とした私が眺めている。行きつく先のない小舟に乗っている気がする、視界は茫洋。四方八方霞だらけで、不安も恐怖も浮かんでこない。 昔の暦だと2月4日がお正月。梅はいつ咲くんだっけ。まあいいや、...

1月

1月は繁忙期。 キャリアコンサルティング技能士試検。面接の実技は2級が1月、1級が2月。休日は集団指導。平日は連日の1O1のオンラインレッスン、先生モードスイッチオンである。 国家資格であるキャリアコンサルタントには、レベルが設けられている。キャリア技能士2級は「熟練レベル」、1級は「指導者レベル」。実技試験は、論述試験と模擬面談によって能力を示す難関試験である。ちなみに合格率は2級で17.73%。1級は6.55%、全国での1級技能士取得者は、694人(2024年時点)。 試験も2級は年に2回、1級は年に1回だから、今は追い込みの時期、年が明けてから、連日20時からの個別指導が入っている。 面談の練習になるので、生徒さんの特性に合わせた内容となる。実力があって、その上を目指す方々が対象だから、皆さんそれぞれの経験から力をお持ちである。そしてそれぞれの良さと課題がある。 レッスン中はこちらもとにかく必死である。なにせ、高いレッスン料をいただいているわけだから責任がある。継続指導の場合も多々あり、現状の課題の記録と、課題をどうクリアして、もしくは長所にご自身で変えていただくわけだから、こちらも相手に合わせた指導方針の組み立てが必須となる。対峙するエネルギーはもちろんだが、現状に合わせた指導計画にも力を使う。 そうしてそういう方を相手に指導するのだから、こちらも普段からスキルを磨いていくことは必然で、実は自分の学習時間と費用もばかにならない。責任あるもんね。悠長にしていられないもんね。月の2割くらい費用をかけてブラッシュアップする。その努力を苦しいと思ったことはないが、12月から2月は特に。毎日が緊迫感とともにある感じである。 気休めにドラマを見る。動画を見る。電子コミックを読み漁る。高揚感を鎮めるためのトーンダウンが目的なのに、TVを見ても、ニュースを見ても、朝のワイドショーを見ていても、みんな戦ってるんだなあという、受講者目線で見ている自分がいる。 たとえば警察24時。警察の方々もそうだけれど、罪を犯してなんとかこの場を免れようと、警察官にお世話になる側の方々の戦い方にも見入ってしまう。 それぞれの戦い方があり、その根底にある思考や感情が行動のもとに流れている。ふだんからこんな切羽詰まった考えで、モノを見ているわけではない。しかし気になって...

ERA 2025

月を見上げる。冬の月である。 宵闇の時間。この上が飛行機の幹線航路であることを知る。月の脇を赤と青の点滅ランプが過ぎていく。 12月。変化の1年だった。自分のこともそうだけれど、世の中のできごとも然り。只中では気づかない。立ち止まると見えてくる。流れは、節目は、こんな形で訪れるのだ。最中は気づかない。振り返るから節目がつく。そんな気がする。流れに飲まれているのも悪くはない。しかし、自覚がなければ評価も生まれない。 まだまだ進んでいかなきゃな、元気でいなきゃいけないな。生き延びるのが人生なのだ。現状維持は衰退の入口。変化を進んで受け入れなければ、健全は少しずつ、でも確実に失われていく。変化のさなかは、妙な静けさのなかの膠着に耐えていくことなのかもしれない。 組織の定期面談をする。これは月次のお仕事。 相談者は多様である。個性も価値観も、働く場所も環境も、役割だって違うはずなのに、不思議なものでその時期特有に、個人の訴えには共通している課題がある。 人の受け取り方、感受性や季節的な環境と人との性質の呼応が、共通するのか、共有する意識が変化を呼び寄せるのか、それともそもそも日本特有の課題なのか。実は、大きな磁石みたいなものを、経過する時間が含んでいて、潜在的に人の心は同じ方向を向いてしまうのかも知れない。 言えない人、言わない人、仕方がないと口にする前に諦める人。責める人、嘆く人、斜めに構えて目の前のできごとにフォーカスせずに、自分の内部に答えを見つける人。 多様な表面を持ちながら、抱えたものを吐き出すのを躊躇うのは世の常だ。防衛機制は自分を守る盾である。口をつぐんでいた方が無難であることは間違いない。そう思いながら自分自身を振り返る。不思議だ。自分の心がそういう人たちを引き寄せているような気持ちになってくる。心許ない。そう思う自分自身の在り方が、似たような悩みを吸い寄せているような。そんな気持ちを抱えていると、相談者はこちらの気持ちをまるで見透かしたように、同じような心持ちを口にする。エスパーなの? なんで私が思っていること、わかっちゃうの? ほんとうはカウンセラーは私じゃなくて、あなたなんじゃないの? 変化の話に戻ろう。 積極的に動いてはいけない時がある。結果を出すには行動しかないと思える時もあるけれど、じっと内側を考えていかなければ...

ホープ・アクション・アプローチ

お金はエネルギーである。そうして時間もお金と同じ意味を持っている。 お朔日に通う神社の例大祭に参加している。 一年に一度しか開かない本殿の扉、年に一度しか入れない社殿と本殿との間の中庭。好奇心に負けて、私にとっては大枚はたいての参加なんである。 祝詞からはじまり、収穫された旬の野菜、お頭つきの鯛、果物や新米を丸めた餅、たくさんのお供え物が、たくさんの神職の手で運ばれる。親善の前では膝で進むのが決まりらしい。目の前で執り行われる儀式は、もちろん非日常なんである。   ほぼ飛び込みの参加なので、私の席は末席である。めったにない機会だから、好奇心に白旗上げてあれこれ堪能したいのに、目に入るのは大勢の人の後頭部なのである。 神聖な時のはず。前の女性が耳裏に忍ばせた香水がきつい。集中が持たず、週初めの会議を考える。きっと思う通りにはいかないだろう。予定したタスク、すんなり通すことができるだろうか。 昨夜は研究会だった。テーマは「ホープアクション理論」。持続的な希望の維持。コンピテンシーは5つ。自己啓発力と自己明確化。そうしてビジョンと目標設定。そうして実行力。言葉で並べるとその通りなんだと思う。でもさ、行動は…と、現実に落とし込む想像も持てない。立てた目標に私たちは適応していけるんだろうか。苛立ちが立ち上がる。 最近は内省ばかり。内省に足をすくわれ、計画は順調に運ばない。風が吹いて、ケヤキが一斉に落葉する。参列している人たちから、歓声が上がる。 例祭が一通り終わり、参加した神職の紹介がある。日が良いので、境内に集まっている七五三家族の賑わいも聞こえてくる。オウムのピーちゃんが何やら騒いでいる。 紹介される神職の順番が気になる。フラットを自認しているのに、与えられた末席を気にする自分に驚かされている。 神前は今日一日扉を開けておくそうだ。神前の白布に注がれたたくさんの時と、多くの祈りを考えている。 直来。例祭の終了後に神前に供えた御饌を神職と参列者でいただくことを指す言葉だそうだ。でも、なんとなく年配のおじさんたちとの飲み会のように感じてしまう。あちこちでお酌しあう会の場で、決して酌婦になぞなってたまるかと、頑なに身構えている自分がいる。 となりあった男性は、今年から氏子の会長になった方だ。まだ新米のようで、年配者からの教えが降り注がれている。...

100万回生きたねこ

秋が来た。やっとの秋、待ち詫びていましたぞ。街路樹の葉先がオレンジ。黄色、緑のまだら変色が始まっている。 親戚が集えば、自然、近所のダレヤカレヤの話になる。若い頃なら、話題はおめでたごとが主流だったけれど、メンツはもう若くはないので、病気や施設入所、はたまた鬼籍に入った人の話になる。「92までは元気だったのにねえ」「わからないもんだよねえ」。そもそも実家のご近所さんの話題に疎い身としては、話題には入れない。孫と一緒に茶菓子をつつきながら、手持無沙汰なんである。 「ばあばは4桁生きて」。 孫からの不意打ちの耳打ちである。 4桁というと最低でも1000歳? 「うん」いくら可愛いあなたのお願いでもねえ、それはちょっと無理だなあ。叶えてあげられるようがんばってみたいけどね。孫の表情が曇る。なんだなんだ? 急になんでそんなこと言うの? ふふふと孫は答えない。 夢を見る、目が覚める。さえずる雀、玄関先に立って空をみていると、求愛活動なのか、グループ活動なのか、伝達しながらピヨピヨ飛び回る、楽しそうだ。そもそもこれって雀なの? 無知を楽しむ朝の空。幸せだ。 世界がサラになったような朝。本格的な秋の到来。空気が違う。空にはたなびき美し模様の雲。単に昨日の続きが連れてきた朝じゃない。もしかして夢の続き? 朝の瞑想ならぬ、朝の妄想。違う世界にパラレルした気分を味わう。私ではないだれか。新しい人生。能力にあふれて、万能感に満ちた一日が始まる。資金繰りも、ぐるりの環境も、ニーズを満たせていない現実を考える必要のない私じゃない誰か。もやもやなんてどこ吹く風。どうせなら、マイナス10キロくらいの細身スタイルのビジュアルがいいな。 集積所には“燃やすゴミ”が積まれている。今日は水曜日か。途端に現実に引き戻される。あーあ、なんだかちょっと楽しい気分だったのにな。 内閣が変わった。高市総理の誕生だ。女性とか男性とか区分して考えるのは好きではないものの、なぜか新鮮である。偉い人のこと。十分発言には考慮を重ねて発するのだろうけれど、この人の言葉はまっすぐ寄り道せずに届いてくる。正直で率直な言葉である。大きな笑顔、艶々な髪。髪はいずれにしても、笑顔自体がこの人の大きな武器なのだろう。この笑顔と正直さで、この人は目の前の道を歩いでいくのだろう。次々繰り出される障害を、上手に避けたり、...

水の流れが生みだすもの

しもつけ21フォーラムに出かける。今月の講師はオタフクソースの代表取締役社長、佐々木孝富氏である。 「なんてったってオタフクソースが一番よ」と、生粋の北関東生まれ義姉のイチオシソース。コアなファンが多い背景に、独特のファン文化がある。今日は、そんな会社の社長さんのお話。席には、お土産品の「お好み焼き粉」と「ウスターソース」が並び、どうやらサービス精神がすごく豊富な方の様子。なんだかうきうきラッキー気分である。 講師登壇。オーラがすごい。って言うか、瞳キラキラ、発見力と好奇心が発露しちゃって、一目瞭然アクティブ社長。映し出されるPPT資料も洗練されて魅力的。コナモン愛が溢れすぎてワサワサと零れている。 スクリーンには日光工場が映し出されている。日光は水の豊かなところ、大室から森友をつなぐ清流が思い浮かぶ。 「製品も社員も愛してるんですよ、愛してるもんを大切にするの幸せなんですよ。思いついたことはカタチにして、残ったものは淘汰して、質と誇りを醸成するのが社長の仕事です」を真ん中に据えたお話である。装飾のヨケイモン言葉をそぎ落とし、際立つ表現。力を持った言葉は、迫力をまとって投射される。 そう、放たれる言葉は、煮詰めに煮詰めぬいた結実みたい。日がな365日、一日24時間、四六時中の3乗くらい、思いを重ねて凝縮した言葉。一つ一つが、研磨の登竜門を潜り抜けたメッセージ。熱量よね、愛よね、なんだかメッケモンみたいな一日だわ。そういえば今日の私、コナモンだの、ヨケイモンだの、メッケモンだの、モンモン言っちゃって、シンパシーを投げ込まれてるんである。 「何かを伝える」作業は技術がいる。 登壇者の話を求めて足を運ぶ者が大多数なら、場に合わせた話題でも十分盛り上がるし、会としては成功だ。 この「求めて足を運ぶ者」を市場に置き換えてみたらどうだろう。商品を自ら求める人々が会場を埋めたなら、それぞれ自ずから手を伸ばして、かごに入れたらレジまで運んでお金を払って帰っていくのだろう。その場に陳列しておくだけで。 そして、佐々木社長。生き生きと、話されるのはご自身の生き方そのもの。凝縮させた「主体」そのものをカメハメ波の乱光線みたいに放射する。 話術はもちろん、パッションとミッション、ぶれない目的、柔軟に変化を受け入れつつ絶えず調整される目標。ここで発露されるのは、...

サノヨーコ、サノヨーコ

「神も仏もありませぬ」。そうか、いないのか。なんかバチあたりだぞ。 天下無敵の佐野洋子先生の単行本のタイトルである。思わず、「残念なこと」と頷いてしまう人もいるのではないか? 先生の言葉には魔法のような説得力がある。 佐野洋子と言えば、「100万回生きたねこ」。佐野洋子と言えば、偉大な詩人、谷川俊太郎氏の奥さん。大らかでありながら、時に見る者をきゅっと緊張させちゃう過敏な神経質さも垣間見せるような絵を描く。なんてったって名前がかっこいい。佐野洋子。あの谷川俊太郎のハートをずきゅんと射止めちゃった人とくれば、自動思考で都会風な線の細い女性を思い描く。骨太な骨格をウェーブのかかった長い髪で和らげて、少し「気取りん」的な。そんな魅力を持った人…いやいや、それは山本容子さんだった。 そんなサノヨーコ像を思い浮かべながら、おずおずとページを進めれば、「生命力」そのものの言葉の塊。生命力が昇華しちゃって、すでにもう神様と仏様じみた領域。大爆笑つづきのハッピーな時間を提供される。 なんだなんだ? 佐野洋子ってスカした絵描きじゃなかったの? 発言はコンプライアンスまるで無視の言いたい放題。かの上野千鶴子さんの上を行って、ズバンと直截的な物言いが魅力的。まっすぐ思ったことを飾ることなく暴露する。なのに、鮮明に保っている幼い頃の記憶、心持ちの表現は、微細、しかも繊細、表現力の神様だ。しかしまあ、こんな直截に言い放っちゃってさ、倫理規定にひっかからなかったわけ? ウィキ先生に尋ねれば、それはそれはの輝かしい経歴。ムサビ(武蔵野美術大学)卒業だから、さぞかしお嬢様かと思いきや、そうではないらしい。画像検索してびっくりした。長髪じゃない(けどショートカットの髪はツヤツヤだ)。随分丸っこくて土臭い。 谷川俊太郎とのちょいエロな共作詩集「女に」を想像していたけど、6年で早々とサヨナラしてしまっている。 お住まいは軽井沢なのね、どのあたり? と思い馳せれば、10年以上前に亡くなっている。残念である。非常に残念だ。 臆せず言いたいことを言って、飾らない。すごいのは、事象を「感じたことそのもの」で語る姿勢と、心を微細にさらけだし、それでも大いなるものに畏敬の念をはらって生きる謙虚さをサラッと挟み込んだ表現力。字でも絵でも、その才覚はとんでもない。自由ってこういうことなのね。才能があ...

1945年7月13日

「宇都宮で大空襲」2025年7月13日 日曜日、下野新聞特別紙面の第一面である。 7月9日、しもつけ21フォーラム例会、若菜社長の挨拶。 “「7月13日は、我が新聞社にとって特別な日。わが社の歴史上、新聞が発行できなかった日は過去2日。その一日が7月13日でした。宇都宮が空襲の火に焼かれた日」 「13日は特別紙面を発行します。昭和20年7月13日当時の写真に、AI処理で色をつけました。毒々しい色合いになったかも知れない。でも、ぜひご覧ください」” カラー写真である。でも、9日の言葉を聞いていなかったら、受け流していたかもしれない。 夜明けが映し出した街。呆然の朝を迎えた人々が見た場景だ。ざらついた空気が肺に送りこまれる感覚がある。裸足に、地面が伝える爆熱の名残。夜中の火の熱、容赦のなさを示す、コンクリート建造物の煤けた外郭。中にあったはずの記者の活動成果、什器、そして人、そこにいた人。そして襲撃前まであったはずの感情、魂。瓦礫。昨日までの景色。損なわれていない情景。被害にあったのは9173戸、亡くなられた方は620人超。 夏の下野新聞は、毎年、戦争の記録を生々しく紡ぐ。 昭和20年7月28日、東北本線小金井駅列車空襲。見下せば、真っすぐ走る線路。パイロットの機銃掃射は、単に余った弾薬を処分しただけかも知れない。空から見れば、視線を遮るものはない。電車は隠れようがない。電車の中にいた人たちにも逃げ場がない。何年も前の記事だけれど、あたかもそれを見知っているかのように、刻まれている。 毎朝、広範囲の情報を命がけで届けた戦時中の新聞。おそらく紙面は戦下情報しかなかったかもしれない。朝に新しく届けられる情報を、人々は待ち望んでいたにちがいない。 戦下をくぐりながら取材し、見出しを考え、より伝わる文章を練って、発行する。毎日命がけで集めた情報が、朝届けられる紙面になる。1日ごと、見て、聞いて、感じて、考えて、無形の情報を、記事に変換した形を与えられたものが記事になる。目の前で起きていることを、市井に伝えるために奔走する。1日はあっという間。それを果たせなかった13日の朝。建物の外郭には、記者たちの魂そのものが立ち尽くしているように見える。 家族の無事、離れている大事な人の無事、食料調達、残酷に直面して耐えている子らの傷。個を犠牲にして、自らの役目を...

マインドフルネスとモラトリアム

金髪の手前まで、明るい髪にしてください。 しかし思うようにいかない。 「どうなんでしょうね。お仕事に影響出ちゃうんでは?」 考えた上でお願いしてるのに、皆さま反対のご様子。 ならば、ベリーショートにしてください。だってさ、夏なんだから。 「伸ばすのにどれだけかかると思ってます? 伸ばそうと思った時、後悔するよ」 願いは届かない。料金払って切ってよと言っているのに、なんだかんだと止められる。髪色ひとつ、髪型ひとつ、思うままいかない。いい年なのに。まあ、些末な髪形ひとつ、心配してくださる人がいるのは、それはそれで有難いことなのだろうけれど。 朝が来て会社に行き、日が暮れて退社する。 ルノアールみたいな空だ。荒れるのか? 晴れるのか? 決めかねている横ばいになった積乱雲。 外に行かずに、事務仕事が続く毎日である。Pマークの更新申請に、行政に出す書類仕事。必要な情報をあちこちから引っ張り出している過程で、ファイリング基準や、ワークフローの基準が徹底していないことに気づいた。 やっつけ仕事+時の積み重ね=非効率。書類やルールの整理整頓、明確化が今優先すべきことなのね。よって社内でちまちま処理を続けている毎日である。 雷が鳴りだした。あっという間に豪雨である。職業訓練の先生は、帰宅を足止めされている。豪雨の中外に出るのは気が引ける。先生方も差し迫って帰宅を急ぐご用事もない様子。足止めされている時間が空白になる。 打ち付ける雨の音を聞きながら仕事をしていると、ぷつっという音とともに電気が落ちた。停電だ。栃木県は雷王国。慣れっこと言えばその通りだけれど、先生方と一緒に空白の時間に放り込まれる。しばらくこんな時間が続けばいいな。まだなにもできあがっていない時間。途中、保留が許されているゆるい時間。こんな猶予期間をエリクソン博士は「モラトリアム」といった。反芻して独り言ちる。 モラトリアムとは、「社会的責任を逃れてゆっくり試行錯誤できる猶予期間」という意味で使われる。主に10歳前後~30歳前後の青年期における概念で用いられる。 棚上げして、結果を出さず、あれかこれかを決めず、途中のままで揺蕩っていたい。そういう状況は心を軽くする。締め切りが嫌い。先延ばしが好き。結果が出ないうちは終わらないわけで、評価されることもない。先延ばしが好きなんて、この場で...

復活のビリジアン

深緑。最近縁のある色である。 普段履きのペタンコ靴が欲しくて、何足かマーケットで試し履きをした。候補に挙げた靴をあーでもない、こうでもないと吟味を重ねて通販で買った。黒を選んだつもりなのに、届いた靴の色は深緑。粗忽な単純ミスである。 心機一転を試みて、カッコイイ黒のエナメルパンプスをポチッた。届いたのは、キラキラピカピカの深緑。まるで水から出てきたばかりのようなガマガエル色。 駐車場でナゾの球体を拾った。むやみに落ちてるものを触ってはいけません。なのに好奇心に負けて手に取ってしまう。色は深緑。機械油でてらてら光っている。これから大事な打ち合わせというのに、手は機械油でべとべとになった。なんなの、もう。そんな色してたら、手に取っちまうじゃないのさ。好奇心の誘惑と、すぐに勢いに負けるタチを後悔する。 それにしても深緑。今の私、深緑が旬なわけ? サクラ絵の具12色セットに、ナゾの名を持つ深緑、あれはビリジアンと言ったっけ。 だいたいさ、なにかとやたらコンニチハしてくる深緑。何か意見でもあるのかい? 深緑。色の意味を問うてやろう。喧嘩腰にグーグル先生に尋ねれば、色言葉は、疲れ、不安、干渉やら呑み込まれやらなんやら。マイナスメッセージばかりじゃないか。あれれ、下の方まで見たら「集合的無意識」とも書いてある。あらら。これならなんだか受け入れられるかも知れないわ。 最近植物が怖い人の話を聴いた。緑の葉っぱが嫌なのだそう。彼の眼には、緑の葉っぱ1枚1枚が、カサカサ動き回る嫌われ者の虫(Gのことだ!)のごとく映るんだそう。そんな人いるんだ。そんな人は、きっと深緑も嫌いなんだろうな。 「深緑」が今日のテーマ。 「深い水の底は見ることができない」水の底は、そもそも濁ってたら水底なんか見えやしない。詩的な文章だ。水底に潜って探索を続けよう。
澄み切った水底は深さを惑わせる。魅入らせて深みに引きずり込み透明は、恐怖を神秘に変換させているのかも知れない。 澄み切った水には冷たさを想定させない。水底にはなにがある。濁った水を恋しくさせる。。見通しをつけるきっかけは、実は濁りや汚れなのかも知れない。サウンドオブサイレンス的な混沌。目を凝らして絡まったあれやこれやの糸口を探す・・・いやいや、考えたいのは集合的無意識。澄んだ水の話じゃなかった。 無意識の底に潜んでいるのは、“集...

よたよたペンギン

シリウスをご存じだろうか。太陽の次に明るい一等星。孤高の星でもある。 不眠である。毎晩ではないものの辛い。 夜明け前に目が覚めて、嫌なことを考えるのが止められない。朝が来れば笑い飛ばせる。笑い飛ばすことができてるようになる。なんであんな変なことを考えちゃったんだろうね。きっと惑う時間帯と、仲良くし出してるに違いない。先に進まなくてはいけない。言い聞かせながら眠りに就くが、夜になると無数のニードルのような狂気が心を苛んでくる。手に負えない。無念なのか、悔しさか。容易に他者を信じた愚かさか。夜通し後悔に痛めつけられる。 仕舞い方がわからない無能な奴め。愚かなくせにナニサマのつもりだったのか。。眠れない自分を、妙に覚醒したあるべきはずの自分を糾弾する。一睡もできない。昼に整理をつけたはずの感情が、寝しなに不穏な昂ぶりを兆し出す。最近親しくなったgeminiちゃんに、悪しき感情の制し方を尋ねてみる。感情のおさめ方について教えを乞う。 得た答えは、一時絶大な説得力を持つのだけれど、砂地に立つ棒切れのように、夜になれば非力だ。どうにも手に余る感情に説き伏せられる。イライラなのか、怒りなのか、戸惑いか、悲壮なのか絶望なのか、見極めることができずに混濁する。わからないもの相手の戦いは、周知の事実であるけど対処しようがない。お手上げ状態である。 間違えてはいない。なるべくして得た最良の結論だとも思っている。納得しているはずである。気持ちを整え、シフトチェンジはうまく行った。なのにである。こいつは夜になると、とてつもない勢いで感情を暴発させるのである。 草津に来ている。休養に来たはずなのに、後悔に悶絶したまま夜を明かし、一睡もできないまま朝がきた。 今日から娘夫婦が合流し、夜は長子の孫と過ごすのが恒例である。部屋の電気を消したあと、私と孫は、布団をかぶって密かな女子トークを繰り広げる。大抵は小4になる孫のウチワ話を聴くのだが、最近の彼女は妙に大人びて、手放しで私を慕ってはくれない様子。女の子は成長が早いのだ。寂しいかな、蜜月はそろそろ終了のよう、もやもやする脳みその中で現実を見つめている。 昨夜は寝てないから、孫の来室はなしでお願いしたい。まあ、妙に大人びてきているから、孫もそう残念に思うことはないと思う。残念だけど。娘にそんな言い訳を持ち出した。娘は孫...

20250331 サヨナラの月

卒業式は3月。入学式や入社式は4月。新しい期の切替は4月。それをサクラの花が華やかに見守る。馴染んだ考えではあるんだけど、グローバル的に見れば実は日本特有の文化。欧米だと、期の始まりは9月で夏の終わり。春じゃない。 3月はサヨナラの月。月の終わりに近い日に、突然電話をもらうこともしばしば。 「実は今月で異動なんです」「実は今月末で終わりなんです」。アラアラ大変、ご挨拶に伺いますね、と菓子折り持って足を運ぶ。なんだかね、ちょっと寂しくて、電話するのが遅くなっちゃって。なんだか名残惜しくてね。 急な別れを惜しむなら、日頃からもっとまめに会いに行っていればよかったものを。残念な思いで一杯になる。 急に行ってもナー、先方も忙しいんだろうしナー、など億劫がりにかこつけた自己都合で気を遣い、横着する。その上でのアラアラ大変なのだから、ザラッとした心残りが確かにあるのを噛み締める。 水星人は別れを悲しまない。なぜなら一緒に過ごす時間に、その日、その時を精一杯に過ごすことを尽くすから。後悔を残すことなく、水星人は悔恨なくサヨナラと笑顔で手を振るらしい(村上春樹初期の小説から~タイトル、忘れました)。 水星人に巡り合ったことはないけれど、木星人にも、もちろん火星人にも会ったことはないんだけれど、20代の頃に読んだエピソードはずっと心の芯に残っている。昔々の人びとの人づきあいって、実はこれに近いものではなかったか。時々そう思う。 車も電車もバスだって、もちろんスマホも電話も、メールだってなかったのだから、有事の時にとてもじゃないけど間に合わない。用があったってリアルタイムに繋がれない。急ぎの伝達だって誰か人の足頼みの手段だった。 手紙。紙の色を選んでみたり、字の勢いに心を込めてみたり。花のついた枝に結んでみたり、花言葉をそっと込めたり。今で言うところの絵文字、スタンプ様に文字で伝えきれない思いを託す。心のままに伝えたいと願う切実。都度都度の出会いが今生の別れになっても仕方のない昔びとの付き合い方。受け取った方だってないがしろにできるものではなかったろう。 そんな一期一会と、時に社交辞令という名のパッケージでくるまれちゃいそうな、現代の別れの惜しみ方。昔に比べたら、関わるコミュニティも、出会いの数も、今とはダンチで桁違い。ナニをナニで割り出したら数や割合の...

春の山

春の山である。ああ、いつのまに。桜色の春の山。 朝、見上げた春の山。通勤途中に春の山。なにか変だぞ春の山。いや違う。桜じゃないや、昨日の雪。雪が山頂に残ってるんだと気づいたのは、お昼を食べた後である。 そう、雪。午後から降り出した静かな雪。穏やかな3月の日差しに溶けて、すっかりアスファルトの上からは姿を消した昨日の雪だったのである。 思い込みって可笑しいな。それって、潜在意識が思いの外、花を待ち望んでるってことなのかしら。梅が綺麗だしなあ、偕楽園行きたいなあ。河津桜、まだだったしなあ。桃って言えば蜜が強くて、滴った枝がいつもテラテラしてたなあ。太平山の玉子焼きと団子が恋しいなあ。そんなこんなのわっさわっさした欲望が、雪をサクラにしちゃったんだわね。苦笑いの原因を作って、ひとり浮かれていた自分が可笑しい。 戦争をしている国のトップと、支援をしている新しいリーダーの対談があった。両者の意見はカメラの前で分断。対話はなぜ分断したのか。戦争している国のトップが訴えているのは、理不尽な現状の理解と公正な立場でのジャッジ。新しいリーダーの発言の意図は、解決への道筋提案。論点が噛み合っていないから対話はおのずと平行線となる。 戦争は憎むべき行為。感情過多の私たちの思いは、平和すぎる所以の夢物語なのか。守るべきものを持つ立場の感情は、悲しみMaxである。 生まれて初めて、「一睡もできない」日に苛まれている。日中に白日夢を見る。うつらうつらしながらもそこにヒントが含まれているような気がして、覚えているうちとったメモ書き。「相撲の絵」「ぱちぱち」。なんだこれは。ヒントなどではない、ただの混乱である。 そう言えば…と底の方から浮かぶ記憶があった。 昔々。まだ母親になって間もない頃。長男の夜泣きに悩まされた。いくらでも眠れるのだけど、世に出てきたばかりの我が子はそれを許してはくれなかった。家事は子どもが寝ているうちに。昼の共寝などダメな母親の象徴のように思い込んでいた。明け方に目覚めたときの記憶。まるで夢の続きの悪夢。母乳を含ませても泣き止まない。おむつは濡れていない。あやそうにも起き上がれない。長男の泣き声は自分を責めたてているように響いた。愛情が足りていない。眠らない長男は、声を上げて母親としての自覚を問い質している。役割と未熟。心が疑心暗鬼という鬼に支配される...

世界の詩人

谷川俊太郎氏が逝去された。11月13日、92歳だった。 日本で唯一と言っていい。詩作でご飯を食べられた貴重な詩人である。 柔らかな文体で心に真っ直ぐ届く言葉の片々。感性をぎゅっと短い言葉に託す、生まれ持っての優れた才能と思っていた。けれど、才能の裏にはたくさんの試行錯誤があった。と、あらためて気づいたのは、購入した谷川俊太郎詩選集2を読んでのことである。 見たものを感じたまま言葉にする秀作が並んでいる。「なんでもないものの尊厳」「コップへの不可能な接近」「りんごへの固執」。“今、ここ”で感じたことを、対象を見つめながら、過ぎ去っていく時間と戦いながら、油断したら言葉にする前に消えていく感覚を確実な言葉にして捕まえて行く。そんな習作のような作品群だ。 某テレビ局の問題が世間を騒がせている。たくさんのCMが流れるはずのTV画面が、番組の予告画面で埋められている。 何が起こったかわからない。守秘義務を遵守しようとする建前的な問題と、コンプライアンスについての世間への申し開きが鬩ぎあっている。実体のない罪、当たり前になりすぎて、なにが問題だったのか掴み切れず、対応が不明瞭なままの記者会見。私は見入っている。価値観の変遷。もしもこんなことが「普通」に行われていたのかという驚愕。しかもその内容は、ドラマや通説で知っていたような類のものが、実態を持って解明を待たれている。 申し開きをしているお偉方は言葉を慎重に選ぶ。それは核心に触れさせまいとする精一杯のようにも見えてくる。責める側は狂気を帯びているようにも見える。真実の解明を盾に、それは恐ろしいほど知性を感じさせない応酬だ。 事実がどうということを述べる立場にないが、言葉は武器だとそれだけを強く感じる。力を持った者が弱い者の尊厳を踏みにじる。見え隠れするのは、「相手は口をつぐむだろう」と言った姑息で卑劣な思惑だ。発した言葉尻を捉えられないために、普段は饒舌だったはずの口をつぐんで隠遁する。そんな構図に皆がこの時ばかりと逃がすまいと奮起する。 問題となっているのは、なぜそうしなかったのか、なぜ見過ごしたのか、なぜそれを問題視しなかったのか。それは加害者からしたら「想定内」と感じていた感覚であり、それを「当たり前」としてきた価値観である。問われているのは「過去」の時間のことであり、対応する方になんだか見...

新年

あけましておめでとうございます。 年末、ばたばたとして大晦日に年賀状を書いている。 昨日から家人と温泉に来ているものの、けんかが長引いていてひとつも楽しくない。原因はなんだったのか、ささいなことで言い合いになり、めげている。めげているのに年賀状。気持ちが字に表れているようでやるせない。散歩に行きたくても雪。滑って転んで骨折したいつだかの正月の記憶が鮮明で、ますますやるせない。 仲直りしたくても、仲たがいの理由が覚束なくて、謝る言葉が浮かばない、あーあである。そんななか、孫が来た。子どもだけで泊まることになり、まさに救いの神である。 小学3年生女子ともなると、あまりばあばと口をきいてくれない。弟君の方と仲良くしていると、その様子を横目で観察されているようで、変に気が引ける。面倒くさいからウツウツを放り出すことに決める。射的に向かう。 輪投げにボードゲーム、3人で夢中になっていると用意してきた小銭がなくなる。なんか今日の私たち、バクチうちだよね。バクチってなあに? いいからいいから。 おねえちゃんと温泉に行く。不思議に温泉大好き女子である。3歳くらいから“温泉”と言うと、ママから離れて一人で温泉についてくる。お湯に入って女子トークをするのが彼女の楽しみである。弟君は幼稚園生だが男の子なので、女風呂には連れてこない。 露天風呂には誰もいない。すると彼女はすまし顔をやめて「今から歌います!」と、不思議なショータイムがはじまった。 まずは1番、一番下の弟の歌。2番はすぐ下の弟の歌、パパの歌、ママの歌と続いて、最後は私の歌と、全部で13番まである近況を謳った彼女のオリジナルソング(ダンス付き)の時間である。 よくまあ、観察しているな。彼女の弟への思い、日頃の生活ぶり、家でのこと、学校やバスケチームのこと。お話はしてくれないが、全部歌に入っていて愉快である。 「わたしはあママが少しダイキライ~、すぐに私を怒るからあ」ってオイオイ、あんまり笑わさないで。りんごが浮かぶ露天風呂に入ると、りんごを一か所に集めて、朝礼ごっこがはじまる。どこからか小枝を拾ってきて、自分は校長先生気取りで楽しいごっこ遊びを披露してくれた。 食事がすんで、プロジェクションマッピングを見に行く。会場までなかなか辿り着かない。道々のどんぐりや松ぼっくりを拾ったり、じゃんけん...